2019年7月14日
「すべての人に同じ恵みと賜物が」<<使徒言行録11章1~18節>>
◎ペトロは不思議な体験を通して異邦人(イタリア隊の百人隊長コルネリウス)に福音を語る機会を得ます。 異邦人に福音を語るなどとんでもないと考えられていた時のことです。 しかし、神さまはそんなペトロの考えを打ち砕くように「一同の上に聖霊」を降らせます。 頑なな心を神さまは打ち砕き、福音はすべての人に開かれていることをお示しになったのです。
◎ペトロがエルサレム教会にその事実を報告に戻ると、相変わらずその事を快く思わない人たち(ユダヤ主義者)がそこにいました。 人間の偏見はなかなか変わらないものです。 彼らはペトロを非難するのです。 しかし、その根拠は自分たち中心主義に基づくものでしかありません。
◎ペトロは彼らを説得するのに自らの偏見が神さまによって変えられていった“体験”を語ります。 ただ証しをしたのです。 生きた証しこそ最も力強く人々の心に訴えることができるのです。 そして結果的にそれが伝道となるのです。 伝道とは自らの救われた喜び、そしてその喜びが人々に伝わって行く経緯を伝えることです。
◎本日は伝道献身者奨励日です。 伝道なんて自分以外の誰かがやってくれるという思い込みがありませんか?誰かが献身してやってくれれば良い。 そうではありません。皆さま方一人一人が今ここで伝道に招かれているということを忘れてはいけません。怖れずに大胆に自らがどのように救いへと導かれたかを語り続けましょう。 そして、当然のことですが献身している神学生たち、これから献身しようとしている人たち、また伝道者・宣教師のために祈りとともに献げてゆきましょう。
2019年7月21日
「主イエスの指となる」<<ルカ福音書11章14~26節>>
◎「口を利けなくなくする悪霊」が登場します。 現在、聾唖者と呼ばれる人たちと単純に考えてはなりません。 悪霊に拠るとはっきり言っているからです。 そして主イエスは自らの力でその悪霊を追い出されました。 肉体を超えた力、神の愛と言い換えたいのですがそれが私たちに働く時、奇跡が生まれます。 しゃべることができない人が突然しゃべることができるようになるワケがありません。
◎主イエスのこの活動は反発を受けることになります。ある者たちはしるしを求めます。 主イエスのやることなすこと、すべてに反発する律法学者たちと思われる人々もいます。 そこで主イエスはサタンの内輪もめの例を出して彼らを諭されます。人間の体がそうであるようにどんな組織にも問題はあります。 その問題を自らの力で追い出すことができるのなら問題はなくなるでしょう。
◎人間の体内で免疫が働く内はそれは良いでしょう。しかしその力でもどうしようもないことが起きます。それができるのはやはり外からの力、神の力や聖霊に頼るしかないのです。 人間の力でできると考えるならそれは傲慢となって来ます。 私たちはひたすら主の力を求めるしかありません。 それは謙虚さを生み出します。
◎外側の力が働こうとしている時に大切なことは、その力と一緒に働こうとすることです。 「神の指」という表現が出てきます。 主イエスご自身の力の表れ方なんですが、私たちも「神の指」となって働くことができるのです。 簡単なことではありませんが、マザー・テレサは「神の鉛筆」という表現をしました。 私たちもその働きを担うことができる神の指となるべく祈りましょう。
2019年7月28日
「ダビデの自制心」<<サムエル記上24章1~23節>>
◎ダビデが王位に就くまで彼は大いなる困難を経験しなければなりませんでした。 ダビデはサウル王に仕える楽士であるとともに、ペリシテの戦士ゴリアトの首を取った後はお抱えの有能な戦士長となりました。 しかしダビデの秀でたその才能(及び容姿)の故に、兵士や王の家臣らの称賛を得るようになると、サウル王は妬みの故にダビデに激しい敵意ばかりでなく恐怖をも抱くようになり、ついに殺害命令まで発します。 しかし実は、既に「主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられ」ていて(サム上15:35)、ダビデに油注ぎされておられました(16章)。
◎サウル王のダビデ殺害命令(19章)によりダビデは長い逃亡生活を余儀なくされ ます。 そんな中、ダビデを慕って付き従った者たちは約六百名ほど居たとされます。 それにもかかわわらずダビデはイスラエルを攻撃する敵たちをサウル王に替わ って征伐したりしますが(23章)、サウル王の心は嫉妬に燃えてまったく動きません。
◎本日の箇所はダビデとその一行が洞窟に難を避けている時に起きた出来事です。 サウルは同じ洞窟に用を足すために何も知らずに入って来ます。 ダビデにとって はサウルを討つチャンスです。
しかし彼はサウルの「上着の端」を切り取っただけ で、従者をも説得して「主が油注がれた者」に手を下すことをしませんでした。
◎この行為はサウルに自らの罪を自覚させる結果となります。 「サウルは声を上げ て泣き」(17節)ダビデの厳しい自制心と温情により悔い改めへと導かれます。 そし てダビデこそが王となる者であることを認め、自らの家を絶やさないように憐れみ を請うほどになるのですが、、、
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