2019年8月4日
「主にあって喜びなさい」<<フィリピ書4章1~9節>>
◎喜びの書簡として知られるフィリピ書ですが、この4章にいたって「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4節)と命令形で喜ぶことの徹底さを求めます。 私たちは喜ぶという感情を自分で意のままにコントロールできるでしょうか。 すなわち、悲しい時や怒る時もあるのに、「常に喜ぶ」ことは不可能と思うのが常です。
◎確かにフィリピ書には「喜び、喜ぶ」という語が11度も出て来ますが、悲しみという語も2度用いられます(2:27~8)。そこではパウロが教友エパフロディトの重病と彼との別れを悲しんでいます。 当然のことながらパウロも悲しむのです。 悲しみを我慢して(ないことにして)喜ぶなど偽善に過ぎません。 ではパウロは自らの悲しみをこらえながら他人に「喜べ」と命じたのでしょうか。
◎悲しみを経験しない人間などこの世に存在しません。パウロはその悲しみを越えた喜びがあることを「主において」という語で説明しようとします。 それは「福音のためにともに戦う」ことでもあります。 それは人間のあらゆる感情を否定するのではなく、キリストの十字架の苦しみにいつも思いをはせつつ、主の十字架が私たちの罪を滅ぼしたことに感謝できること、そしてその喜びは私たちの苦難や悲しみに寄り添いつつも、それにも勝る喜びでもあることを強調しようとします。 いえそれは主が上から賜ってくださる賜物なのです。 だから喜びへと変えられるのです。
◎私たちは困難や悲しみの中にあっても「感謝を込めて祈りと願いをささげ」る生活を通して、「あらゆる人知を越える神の平和」をいただくことができるのです。 武器無き戦いにおける信仰の勝利へと導かれたいと願います。
2019年8月11日
「いつでも弁明できるように」<<Ⅰペトロ書3章13~22節>>
◎ペトロの手紙の宛先は「アジアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」(1:1)に対してです。 これはもう少し噛み砕いて言うと「離散と仮住まい」を強いられている人たちという意味であることに留意しなければなりません。 好き好んでではないのです。 何故かと言えばローマ帝国の迫害(皇帝ネロの治世(AD54~68)が想定されます)が迫って来たからです。 ペトロは「共に選ばれてバビロンにいる人々」(5:13)という表現でメソポタミアのバビロンではなくローマを暗示したと考えられているからです。
◎Ⅰペトロ書全体は「神の僕として生きよ」との小見出し(2:16)が明瞭に語っている通り、迫害の迫りつつある異教世界にあって、武力によらずに身を守るためにはどうすれば良いかという喫緊の課題に取り組んでいます。 それは「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(2:17)という生き方に尽きます。 自分たちを迫害しようとする皇帝をすら敬えと命じられます。 そして良き市民社会、地域社会の一員となりなさいと勧めます。
◎そのために「召使いたちへの勧め」(2:18~)、「妻と夫への勧め」(3:1~)等と具体的に指示します。 「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」(13)はペトロの確信ですが、それでもなお「義のために苦しみを受ける」ことがあるのです。 むしろ避けられないと言うのです。 そのとき適切な弁明が必要となって来ます。
◎私たちはどんな立場にあっても、自分が行った事については説明責任が生じます。 それは社会が私たちの存在の意義を認めるために必要なことであると共に、このようにしてキリスト教会が生き残って来た理由でもあります。
2019年8月18日
「良き隣り人となるために」<<ルカ福音書10章25~42節>>
◎「良きサマリア人」として知られるこの箇所はキリスト教的な愛やボランティア活動の手本として語られ続けて来ました。 しかし私たちはこのサマリア人のようになろうと思ってもなかなかその姿にはとても及ばない自分を知っています。 「~するべき」と理解しようとすると律法的になり、却って宿題が増えて自分を苦しめるだけです。
◎主イエスの例え話そのものに解説の要はありません。問題は先ず自分たちが追い剥ぎの犠牲者に取った3人の人物のどれに近いか。 祭司かレビ人か? もちろんサマリア人でありたいのですが、私たち自身の中には無視して通り過ぎる偽善者の側面があることも認めねばなりません。そのような弱さ(=罪)を持った人間であることを先ず認めた上で、それでも主は
愛の行為に招いて下さるのです。
◎このサマリア人が追い剥ぎの犠牲者に対して示した三つの態度から学びましょう。 一つ目は「憐れに思」ったことです。 「はらわたが引き裂かれる」という程の強い意味です。 当然と言えば当然ですが、無関心が支配するこの世界で他者への共観は最初のステップです。
二つ目は彼になしうる限りの最大限の手当を施します。 恐らくほとんどの人はこんなことまではできないと考え、そこで終わってしまいます。 しかし敢えて言えばここはできる人に任せれば良いのです。
◎三つ目ですが、サマリア人は自分のなすべきことを終えた後、この人を宿屋の主人に託します。 本日強調したいのはこの「託す」「繋ぐ」という行為です。 自分たちが何でもできると考えるのではなくできる人につなぐのです。 そしてこれこそがサマリア人たるべきワザなのです。
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