2019年9月1日
「聞くに早く、語るに遅く、怒るに・・」
<<ヤコブの手紙 1章19~27節>>
◎本日の「ヤコブの手紙」の箇所には難しい解釈を必要とする文章はありません。 とても簡潔かつ直裁です。 パウロの手紙に対してペトロ・ヨハネ・ユダの手紙と共に「公同(カトリック)書簡」と呼ばれています。「公同」とは特定の個人や教会に対してではなく、教会全体で公に読まれるべきという意味ですが、この手紙はまた「行動書簡」でもあります。
◎「ヤコブの手紙」で思い起こされるのはMルターがこの手紙を「藁の書簡」、すなわち藁のごとく価値の低い書簡と呼んだことです。 Mルターはパウロの「信仰による義」を再発見したワケですが、人間が救われる条件には「行い」は不要であるとし行動を強調するこの書簡を忌避しました。Mルター当時としてはやむを得ない側面がありました。
◎しかし当然のことですが、どちらか一方だけを選んで他を切り捨てる姿勢を聖書自身が求めていないことは明白です。 福音とは簡潔に言えば「・・・である」(=あなたは赦されている)という宣言と「・・・であれ」(=を行いなさい)という律法の二つの側面を含んでいるからです。 この点でヤコブは「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2:17)と断言します。 律法の行いにおいて完全な人間など存在しません。 かと言って信仰による義さえ(それだけ)あれば十分だと言って慢心してしまってもいけないのです。 バランスが必要なのです。
◎貧富の格差はいつの世にあっても永遠の課題です。 当時の教会にもこの問題が教会のあり方を歪めていました。これは教会内に差別を生み出します。 ヤコブはそんな差別をなくしたいと心底考え、律法の行いと共に舌を制して施しとケアを人々に勧めることで教会を建てあげます。
2019年9月8日
「裁いてしまう心に向き合う」】<<ローマ書 14章1~11節>>
◎先週は「ヤコブの手紙」を通して行いと信仰が分裂せずにバランスを取ることの必要性を学びました。 信仰と行動の両立です。 本日はパウロ書簡です。 言うまでもなくパウロはヤコブとは対照的に律法よりも「信仰によってのみ救われる」という点を強調している様に思えます。 ◎しかしそれは信仰と行動の分裂ではなく、むしろパウロは行動=律法の完成の仕方として愛を強調していると見るべきです。→「人を愛する者は、律法を全うしているのです」(13:8) 有名な「愛の賛歌」(Ⅰコリント13章)では「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と三つの比較の中で「愛」の優位性を語っていることはよく知られた事実です。 ◎パウロはここで「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(1節)と語ります。 「信仰の弱い人」とは2節以下で律法の規定(『レビ記』等の食物規定)に捕らわれている人々のことです。 初代教会はユダヤ教の下に誕生しましたから、その律法から自由になることは簡単なことではありませんでした。 律法の下にあった人が居たとしても、それ自体が間違ったことでも非難すべきことではありませんでした。 むしろそれらの兄姉を批判している人々こそ非難すべきだと指摘したのです。 ◎批判する人々は「いつまでそんな規定に捕らわれているのか」と見下そうとします。 しかしそのような侮蔑や裁きは何ものをも解決することはできず、むしろ教会内に分裂と混乱をもたらすだけです。 双方の存在が主にとっては必要なのです。 そのために寛容が必要なのです。 「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1コリ8:1)のです。
2019年9月15日
「新たに生まれなさい」<<ヨハネ福音書3章1~16節>>
◎16節は「黄金の鍵」聖句とされ、誰もが事あるごとに暗唱と反芻を繰り返すべき有名な聖句です。 この言葉に辿り着く背景にニコデモという老熟した学者が登場します。 彼は議員でもありその言動は人々に知られています。
彼は「ある夜」、主イエスを訪ねて来ます。 「ある夜」という語には人に知られてはまずい後ろめたさがあります。
◎ニコデモは律法に精通し、高い地位にあったにもかかわらず、主イエスとその教えに心惹かれていたと思われます。 しかし立場上、公に動くこともできない。 だからこっそりと訪ねて主イエスに対話を挑みます。 先ず「神が共におられるのでなければ、・・・だれも行うことはできないからです」とニコデモは主イエスを持ち上げます。 ところが主イエスの応えは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と、別次元のものでした。
◎ニコデモは主イエスの応えを心外と思ったのか、さらに論争をけしかけます。「もう一度母親の胎内に入って生まれること」をするのか。 彼は学者で議員であるのに、人間の本質的な霊的な課題がまるっきり分かっていなかったのです。 この世の肉の部分は過ぎ去ります。 彼にとって絶対的と思っている地位や名誉など一時的に過ぎません。
◎本質的なことはこの世的なものを一切捨て去って、新しく(=上から)生まれ変わることです。 老化と肉体の衰えは私たちの考えを死に向かわせます。 しかし、福音は私たちを復活の光から見させ、私たちに希望をもたらすのです。 そこに新しい誕生が起こるのです。 ニコデモは主イエスの十字架の死後、遺体を葬る際、高価な香油を持ち寄ります(ヨハネ19:39)。 彼は生まれ変わっていたのです。
2019年9月29日
「生まれ変わるためには」<<創世記37章12~28節>>
◎ヤコブは末っ子のヨセフを偏愛したため兄たちはヨセフを憎み疎んじていました。 ヨセフは或る夢を見ました。 それだけなら誰にもあることですが、その夢の内容を兄たちに話したために兄たちから大きな反感を買うことになります。
兄たちのヨセフへの憎悪は殺意にまで発展して行きます。(以上、37章1~11節)
◎長大なヨセフの物語(創世記37~50章)は兄らの嫉妬、父ヤコブの偏愛、ヨセフの傲慢等、人間の罪そのものから出発します。 父ヤコブはヨセフを羊の群れを飼う兄たちの消息を問わせるためにヨセフを送ります。
ヨセフは愚かにも貴人が着る「裾の長い晴れ着」(v23)を着たまま兄たちを追って遠い旅路に出かけます。兄たちが居たシケム、さらにドタンまで約100kmもある道のりです。
◎兄らは父の目の届かないことを良いことにヨセフを殺そうとします。長兄ルベンだけがかろうじて弟の殺害を押しとどめますが、結局は通りがかりのミディアン人の商人たちによってエジプトの隊商に銀20枚(当時の奴隷の代金)で売り飛ばされてしまいます。 →銀30枚で売り飛ばされた主イエスと似ていませんか?
◎さてエジプトへ奴隷として売り飛ばされたヨセフはエジプトでも不当な投獄の生活を経て、神の不思議な導きと摂理により破格と言っても良い出世を遂げます。 折からの飢饉という危機の中で食糧を求めてエジプトにやってくることになった兄弟たちと劇的な対面を果たし、憎しみを越えた和解に至り、家族の窮地を救うのです。 人間が生まれ変わるためには数多の試練を経なければなりませんが、そこには必ず神さまの最善の摂理があるのです。
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