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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2019年12月1日
「いかに美しいことか!」<<イザヤ書52章1~10節>>

◎アドヴェントに入りました。 アドヴェント(Advent)とはラテン語の到来という単語に由来します。 ここで考えねばならないのは「何が」あるいは「誰が」やって来るのかということです。 もちろん、私たちは二千年前の主イエスの到来の事実を知っています。 そして再び到来する主イエスを期待と喜びを持って祈りつつ待ち望む者でありたちと願うのです。
◎「奮い立て、奮い立て」(新しい翻訳では「目覚めよ、目覚めよ」)(共同訳聖書)と主は呼びかけられます。 何故でしょうか? イスラエルの民が捕らわれてしまっている現状を座視していて良いのか。 人々は希望を失い始めて希望を持てない状況となってしまっている。 「わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。」(5節)は主の民に対する抑えがたき悲痛な叫びでもあります。
◎そしてこのような時、かつてもそうであったように今も、そしてこれからも神は私たちのために一方的な恵みの故に行動を起こされるのです。 汚されおとしめられたままになっている主の御名のために、イスラエルの民を救い出すという行動に出られます。 何の価値もない、ただ同然の私たちを「銀によらずに買い戻される」(3節)のです。
◎神の無償の愛、値しない者への愛、時宜にかなった愛、これは主イエスにおいて完成されまし
た。 アドヴェントはこの御方の愛を待ち望むひと時でもあります。 それと共に私たちの中に愛がないにもかかわらず、愛される価値があることを示された御方をそのまま受け取るだけで良いということを心に刻みたいと願うのです。



2019年12月1日
「主が私に告げられることのみを語る」<<列王記上22章全体の概要>>

  ◎北イスラエルの王(アハブ)と南ユダの王ヨシャファトはずっと対立関係にありました。 力関係では弱かった南ユダは隣国アラムの助けを得ているような状況でした。 そんな中、国際的な通商路であるラモテ・ギレアドの支配権を巡ってアハブ王とヨシャファト王の利害関係は一致しました。 戦いを始める時は古来より預言者に伺いを立てることが通常でした。 宮廷には驚くべきことに四百人もの預言者が居たことが記されています。
   ◎宮廷に仕える職業預言者たちは戦争となれば(弱腰を批判されることを怖れて)戦いに肯定的な預言をすることが常となっていたようです。 そのような中であえて批判的な預言をすることは勇気が要ることですし、逆にそれは預言者としての評価を高めることにもなります。 ヨシャファト王が「ほかに主の預言者はいないのか」(7節)と訊ねたのは真の預言を引き出したかったからに他なりません。
   ◎「イムラ(言葉の意)のミカヤ」は使いの者に「幸運を告げ」るように釘を刺されますが、アハブ王は他の預言者と同じ預言をするミカヤに対してかえって不安を覚え、本音の預言ではないと攻撃します。 すでに「唆す霊」が四百人の預言者に入っており、主はアハブ王の行った悪政(特に21章のナボトに対するもの)に偽預言を通して裁きをなしアハブ王に報いをさせたのです。
   ◎ミカヤの預言はその意味で戦略的なものでした。 そして主の告げられたことだけを語りました。 預言者とはこのように主の言葉を預かり語る者です。 そしてそこには主の深いご計画があります。 預言された救い主を待ち望むアドヴェントを主の御心を探りつつ過ごしましょう。



2019年12月15日
「あなたはわたしの宝」<< マラキ書3章13~24節 >>

 ◎マラキという名前は旧約聖書中この書物にしか出て来ません。 「私の天使(or使者)」という意味で本名ではないと考える説が有力です。 アドヴェントの季節にここが選ばれるのは最後の節「彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる」(24節)が主イエスを指し示していると考えられ、旧約聖書と新約聖書の橋渡しとなっているからです。
 ◎「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる」(13節)との問いかけに「どんなことをあなたに言いましたか」と開き直りの言葉が戻って来ます。 すなわち自分たちの本当の姿が見えていないのです。 それどころか、そのように呼びかける主の言葉に論争的に反応しているのです。
ここに罪人である私たち同様の姿を見ることができます。マラキ書の時代は捕囚から帰った人たちが神殿の再建を終えて、人々が生きるための目標を失った時代でした。
 ◎生活に安心ができるのは良いことですが、それに慢心し切ってしまうと霊的には暗黒状態となってしまいます。今こそ出来上がった神殿で律法、預言者(22,23節)=聖書を中心にした信仰生活を確立して行かねばならない!そのような時なのに人々はますます自分のことばかりに捕らわれ霊的な捕囚状態となっている。 主はそのような民に「見よ、その日が来る」(19節)と審判を下される。それは「高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。」という激しく、そして徹底的な裁きなのです。
 ◎しかし、「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」(20節)というのです。 主イエスを信じる者たちは「私にとって宝となる」(17節)と言われます。 なんと驚くべき約束ではないでしょうか!主が一方的に来られるのです!


2019年12月22日
「山里中で話題になったお話」<< ルカ福音書1章57~66節 >>

 ◎主イエスのお誕生日と言いつつ、バプテスマのヨハネの誕生について今日は語ります。 それはひと言で言えば驚きの出来事でした。驚きの連続と言って良いでしょう。何よりもエリサベトは不妊の女で年老いていました(7節)。 もはや自らの人生に何をも期待することのできない存在でありました。それは旧約聖書のサラにも言えることでした。(創世記16章以下) 「しかし」であります。 そのような人間世界の不可能が覆されます! 妊娠!それが神のなさる事で、上より一方的に恵みとして与えられます。
 ◎ザカリヤの祭司的(律法的)正しさは彼ら夫婦に何ものもたらしませんでした。 当時、神殿祭司は約2万人も居たとされます。 当番とは言え、しきたりに拠れば年に二回だけの香を焚く順番はくじで決められました。 選ばれる確率は限りなく低いのです。 「しかし」であります。 幸運にも選ばれた。 そのザカリヤに天使ガブリエルが出現して男児の到来を告げます。 不審を拭えないザカリアには口が閉ざされるという結果が待っていました。 その上、妻と共にそのまま「五ヶ月の間身を隠」す結果となります
 ◎バプテスマのヨハネという存在をもたらすために両親は戦います。 父の名を継ぐというしきたりを天使の指示に従って今度は破らねばなりません。 「しかし」であります。 その報いはザカリアに口を開かせ讃美をもたらしました。 驚きの出来事の連続は山里中の話題を賑わします。
 ◎驚きはそこで終わりません。 ザカリヤ夫婦に起きた出来事は序曲に過ぎません。 主の誕生は処女マリアに訪れるというもっと驚きの出来事でした。私たちの人生にも神の介入の「しかし」をどこに見いだせるでしょうか?


2019年12月29日
「主の霊がとどまるところ」<<イザヤ11章1~10節、マタイ2章>>

 ◎クリスマスはクライマックスではなく、むしろ私たちの信仰の出発点です。 それと共に1年の歩みを振り返りつつ新年のビジョンを確かめる時でもあります。 恵みの数々を数えてみましょう。 1月6日の公現日(エピファニー)まで続くクリスマスの季節を感謝のひと時としましょう。
 ◎イザヤ書の預言はダビデ家の中から「主の霊」がその上に留まる人物がメシアとして現れる、というものです。長い年月を経た後、その御方を主イエスと信じるのがキリスト教です。彼は正義と公平をこの世にもたらします。 彼が支配する世界は「狼は小羊と共に宿」るような世界です。そのような理想郷は今の世界には存在しません。 それは主の再臨によってのみ生みだされます。 ですからクリスマスは主の再臨を待望するひとときでもあるべきなのです。
 ◎「博士たちはその星を見て喜びに溢れた」。 彼らはその後躊躇なくその星を目指して危険をも顧みずに旅に出ます。 多くの時間と財力、そして体力のみならずとびきり高価な献げ物すらも携えて出かけるのです。 真の救い主に出会えるということは異邦人にとってそれ程かけがえのない価値だったのです。 それは異邦人世界の宗教に対する勝利をも暗示していると教会では受け止められています。
 ◎博士たちがヘロデに会わずに帰国したことはヘロデを激怒させ、多数の幼児たちが犠牲になります(キリスト教会の最初の殉教者とされます)。 歴史は繰り返すとされます。 教会を築きあげた人々のこれらの尊い血潮にも目を注ぎつつ、主が共におられることに勇気を頂きましょう。そして私たちに委ねられている信仰の旅路を走り抜く決意を新たにしようではありませんか。インマヌエル!