2020年3月1日
「新たに生まれなければ」<<ヨハネ福音書3章1~16節>>
◎16節は「黄金の鍵」聖句です。「この世」に自分の名前を入れて読め等と言われます。それでは不十分です。 神が救うのは全世界だからです。 ニコデモは議員でもありその言動は人々に知られています。彼は「ある夜」、主イエスを訪ねて来ます。「ある夜」という語には人に知られたくないという後ろめたさ、罪の重荷が反映しています。 ◎ニコデモは律法に精通し、高い地位にあったにもかかわらず、主イエスとその教えに好奇心を持っています。 しかし立場上、公に動くことはできません。 だからこっそりと訪ねて主イエスに対話を挑みます。 先ず「神が共におられるのでなければ、・・・だれも行うことはできないからです」とニコデモは主イエスを持ち上げます。 ところが主イエスの応えは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と、ニコデモの期待を裏切るものでした。 ◎ニコデモは主イエスの応えを心外と思ったのか、さらに論争をけしかけます。「もう一度母親の胎内に入って生まれること」をするのか。 彼は学者で議員であるのに、人間の本質的な霊的な課題がまるっきり分かっていなかったのです。 この世の肉の部分は過ぎ去ります。 彼にとって絶対的と思っている地位や名誉など一時的に過ぎません。 ◎本質的なことはこの世的なものを一切捨て去って、新しく(=上から)生まれ変わることです。 老化と肉体の衰えは私たちの考えを死に向かわせます。 しかし、福音は私たちを復活の光から見させ、私たちに希望をもたらすのです。 そこに新しい誕生が起こるのです。 ニコデモは主イエスの十字架の死後、遺体を葬る際、高価な香油を持ち寄ります(ヨハネ19:39)。 彼は生まれ変わっていたのです。
2020年3月8日
「生まれつきなのか、神のわざなのか」<<ヨハネ福音書9章1~12節>>
◎「生まれつき」という言葉は何と冷たい響きを持つ言葉でしょう!この語により私たちはこれは運命であるとの「運命論」や「宿命論」に足を絡め取られてしまっている出来事がたくさんあります。「生まれつき・・・」、この語は、「もし、目が(耳が)見えたら」「もし、この病気さえ良くなれば」・・・人間の素朴な願いに通じます。しかし、ハンディ・病気の治癒は願わしいことですが、変えられない現実も厳然と存在し、それは受け止める以外に方法はありません。
◎永遠に変えられない現実をいくら嘆いても不幸になってしまうだけ、それは愚かなことです。不幸の最大の原因はその理由が見いだせないことです。しかしその意味をイエス様、神さまが教えてくれます。 たとえ「苦痛に意味なんかない」と主張する人が居たとしてもです。 聖書は、また主イエスは「苦痛には大きな意味がある」。それは「神の栄光が現れるためだ」とするのです。
◎「生まれつき目の見えない男」に主イエスは何よりもまず目をとめられます。誰も目をとめずに無視して放置されている男性に主イエス様は声をかけられるのです。「誰が罪を犯したか」-私たちもこのような宿命観に支配されてしまっているのです。 そんな宿命論は私たちに何ものをももたらしません。 不幸に輪をかけるだけです。
◎主は不思議なやり方をなさいます。「まぶたに泥を塗る」-泥って何ですか。汚いもの、触りたくないもの、およそ人間が無視するものです。 主イエスはあえてそのようなものを用いて主の計画を前進させるのです。 「シロアム」に行きなさい! そこに出かけて行くだけでよい。決して難しい命令ではない。 主の言葉を受け止めましょう。
2020年3月15日
「あなたを離れてどこへ行けば?」<<ヨハネ福音書6章60~71節>>
◎「実にひどい話」が弟子たちの間で話題にのぼります。そう言ったのは弟子たちです。 主イエスに従ったとされる弟子たちでさえ、肉の糧であるパン(6章冒頭の5千人の供食)を頂けないとなると簡単に離れて行こうとするのです。 主イエスはモーセに率いられたイスラエルの民が荒れ野でマナ(パン)を頂いたことは主の働きであったことを述べます。 しかし、私たちも眼前のパンのことしか頭にありません。 しかしそれらは一時的でしかありません。
◎主イエスは「神のパン」を求めるべきことを伝えますが、群衆たちの思いは「いつも私たちにください」です。人間とは何と強欲でご都合主義なのでしょう。 何の努力もせずに「いつも」なのです。 主イエスは自分こそが「命のパン」であること、そしてそれは永遠に私たちが生きるために必須のものであることを述べたのです。
◎先ほどまでの主語(=「群衆たち」)がユダヤ人たちに交替します(41節~)。 主イエスに絶えず敵対していたユダヤ人たちが今度は猛反発します。 しかしこれは予想された事です。彼らは律法に則って教えを伝えていますが、それらは霊の世界とはほど遠いものでした。
◎今日の箇所を見ますと、主イエスにつぶやいたのは誰だったでしょうか? 他ならぬ主イエスの弟子たちなのです。 つぶやきは身内から始まったのです。 ここには初代教会内部での亀裂が反映しています。 そして「弟子たちの多くが離れ去り」 ます。 主イエスは問いかけられます。「あなたがたも離れて行きたいか」と。 悲しい問いかけです。 ペトロは「永遠の命の言葉」 に従いたい。 主が選ばれた事を忘れなければ、主は私たちを離されません。
2020年3月22日
「あなたの香油を注ぎなさい」<<ヨハネ福音書12章1~8節>>
◎主イエスは既に指名手配者同然となっています(11:57)。 それでも自分の身に危険が及ぶのを承知の上で、人々が各地から集まって来る過越祭の直前に人々の前に姿を現されます。 それは十字架に向かうという確固たる目的があったからです。そしてかつてラザロを甦らされたベタニヤに行かれ、ラザロも含めた食卓につかれます。 ◎そこにマリアとマルタの姉妹が給仕をします。 ヨハネ福音書でもマリアの行ったわざに注目が注がれます。 彼女はユダに拠れば300デナリオン(300日分の給料)もの価値のある高価なナルドの香油1リトラ(約326g)を主イエスの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐったのです。 すると、「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。 採算を度外視した献身的な行為はその場に居た人々すべてを良き香りで満たしました。 それは神さまの祝福と言って良いでしょう。 私たちはこのようにキリストの香りを放つものでありたいと願うのです。 ◎しかし、これを快く思わない人たちがいます。 金入れを預かりながら不正を働いていたイスカリオテのユダです。 彼は「盗人であった」と聖書は断罪しています。 彼の最後(自殺)は良く知られていますが、ユダは経理担当者として、マリアの香油注ぎが我慢ならなかったのです。 彼は巧妙にも貧しい人たちの味方の振りをします。 ◎この世の論理は至極全うであったとしても、心のこもっていない対応、あるいは罪から生まれた悪巧みによるならばすべてが水泡に帰してしまいます。 逆に人間の目には最悪と見える場合も、神さまの絶対的善が働かれることもあるのです。 今回のコロナ対応→イザヤ26章20節
2020年3月29日
「一粒の麦、地に落ちて死ぬ」<ヨハネ福音書12章20~26節>
◎私たちの社会は終戦後以来の試練に直面しています。それは台風や震災ではなく、目に見えない脅威との戦いです。 そしてその脅威は教会にも及んで来ています。 目に見えないが故に慎重で賢明でなければなりません。 今回、「無聴衆礼拝」(礼拝の中止ではない!)の形を採りましたのは何よりも、ウィルスに感染しない・させないという対策のためです。 決して政治的な権力に屈したからではありません。 自分を守ると共に周囲への愛の配慮の故です。 ◎多くの教会がこのために通常の礼拝を守れなくなっています。 礼拝のネット配信という方法も採用したいと願っていますが、礼拝はあくまでも私たちの体が主と共にあるという原則が根本にあることを忘れてはなりません。 ◎ギリシア語を話すユダヤ人たちはヘブル語を話すユダヤ人よりも一段下に見られて差別されていたことが分かっています(使徒6:1)。 彼らも主イエスがやって来たという噂を耳にして、弟子の一人であるフィリポに面会を依頼して来たのです。 フィリポは直接に主イエスに依頼することができずに一番弟子のアンデレを介します。 これは考えさせる記事です。 弟子の数も増えて行くにつれ、階層が出来上がって行ったのでしょう。 大切な事は直接、伝え合い主イエスに思いを届ける(伝道)と言うことです。 ◎その依頼に対して「人の子が栄光を受ける時が来た」 と謎めいた応え方をされます。 「栄光を受ける時」とは十字架に言及しています。 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 これは十字架の死が人々を救いへと導く尊い救いの出来事であることを示しています。 私(牧師)はこの語で献身しました。
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