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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2020年4月5日
真理とは何か≪ヨハネ福音書18章28~40節≫

◎主イエス・キリストの前に出る時、私たちは自分の罪 の姿、隠している罪、気付いていない罪が照らし出され ます。この方は、私たちの友となり、私たちの歩みを新しくしてくださる方です。 ◎主イエスを捕らえたユダヤ人たちは、大祭司のもとで主イエスを裁き、明け方に総督ピラトの所に連れてきた。 神に呪われた者として、十字架刑にしたかった。そんな 思惑があったが、彼らの思いを超えた神様の御心は、私 たちの罪の呪いを十字架で背負われることでした。
◎ 33-34 節のやり取りは、マタイ 16 章などにあるペト ロの信仰告白を思い起こさせます。「あなたがたはわた しを何者だと言うのか」(マタイ 16:15)。ピラトは、私 はユダヤ人ではないので関係ない、あなたを裁く立場だ と答えます(35 節)。誰かがイエス・キリストについてこ う言っているのではなく、私たちは主イエスに問いかけ つつ、どうように応答しているでしょうか。
◎ピラトは「真理とは何か」と主イエスに問うてはいる が、その答えに聞き従おうとしているわけではない。主 イエスが人生の目的、生きる力、命の源となってくださ るのです(ヨハネ 14:6)。ピラトはユダヤ人たちと主イエ スの間を行ったり来たりしています(29,38b)。ピラトは 総督という権力のある地位にありましたが、人を怖れ、 人の目を気にする生き方でした。主イエスを受け入れな いピラトは、自由であるように見えて、自由ではなく、 周りの人間に右往左往していました。真理の光に照らさ れ、主イエスの赦しをいただき、自由にされて、主イエ スと共に新しい歩みを踏み出して行きましょう。



2020年4月12日 復活祭主日礼拝
来て、見て、信じた≪ヨハネ福音書20章1~10節≫
◎今日、わたしたちは困難と苦痛に満ちた状況の中でイースターを迎えます。世界中に影響を及ぼしている新型コロナウィルス(COVID-19)感染症の流行は、イースター礼拝のあり方にも影響を及ぼしています。自らと他者のいのちを守るために、その喜びを表現、また分かち合うための讃美歌を教会で響かせることもできないのです。
◎しかしその代わりに、私たちは戸を閉ざした各自の家の中でイースターの神秘を分かち合い、復活された主にお出会いしましょう。多くの方が、恐れと不安にさいなまれています。心に傷を負ったり、分裂や孤立を経験したり、家族や教会員を失ったり亡くしたりしています。
◎ユダヤ教の埋葬では死体を亜麻布で巻いて、横穴式の墓の中の小部屋の石のベンチの上に安置するのが習慣でした。しかし墓はもぬけの空でした。 この時点で復活を想像できる方は皆無だったでしょう。 人間の思いをはるかに越えた神の計画だったからです。
◎「どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」という語は、私たちが見当違いの努力をしている事を暗示しています。 探すべきは死者ではなく、生きたお方、しかも永遠の命を持ったお方です。
◎「ここにはおられない!」そうです。 本当に必要なお方(真実)は別の次元にあるのです。私たちの生き方を満たすのはそのお方しか居ません。私たちはもう一度、問いかけねばなりません。主イエス様が私たちの罪のために復活を通して命を与えてくださったから生きることができるのです。墓の中には「希望」はありません。復活の命という希望に生きる者となりましょう。


2020年4月19日
見ないで信じる幸い」<ヨハネ福音書20章19~31節>

◎「見ないで信じる」の反対を考えると、見たことを信じるということができるでしょう。私たちは目に見える ものを信じる(信じやすい)傾向があります。肉体的な 目で見るだけでなく、将来への見通し、気づき、感じた、理解した、といったことにとらわれやすいものです。

◎自分自身の理解を超えたものなどあり得ない、という のは論理的な姿勢ではありません。信仰をもって生きることは、論理的であることをやめることではありません。それは、目に見える世界しか見つめることができないことから生じる人間の思い込みや常識を越えた、より深い論理、神様の御心に目を開かれることなのです。
◎信じるとは、信頼するということです。それは人格的な関係なのです。信頼関係を深めるために、神様がどのようなお方なのかを知る必要があります。自分の気持ちを伝える必要があります。誰か他者の助けが必要なときもあります。
◎復活の主イエスは、不安の真っ只中に立って、私たち に平和を告げてくださるお方です。本当の平和は、主イエスが共にいて下さることによって実現するのです。この平和に満たされた時、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。
◎復活された主イエスは、新たに弟子たちを派遣されます。「赦し」は、互いに愛し合うこと(ヨハネ 13:34-35、15:12)と無縁ではありません。私たちを通して神の赦し、愛が現されるのです。そして、主の福音の言葉、平和の言葉によって、信じる者が与えられ、また私たちの信仰が、主イエスとのより確かな交わりへと導かれて行くのです。



2020年4月26日
何か食べるものはあるか?」
<ヨハネ福音書21章1~14節>

◎この時点で弟子たちは二度も復活の主イエスに出逢っているのです。弟子たちは「復活」という出来事を自分たちの罪の赦し、永遠の命の出来事として受け止めていなかったようです。なぜなら彼らはエルサレムから離れて行って、(イエス様と過ごした日々があたかもなかったかのよ うに)普通の漁師の生活に戻っていました。網を捨てて従った筈の弟子たちが、です。 本日の描写は象徴的です。 ひと晩中、働いたにもかかわらず、徒労のみが残ったのです。
◎私たちにも苦労が報われないことがたくさんあります。そして以前の生活に戻ってしまう。イエス様が目の前 で出会っている! にも関わらず信仰の生活に進まずに元 の(漁師の)生活に戻って行ってしまう。救われた時は嬉 しくて教会に来るのが楽しみでしたが、だんだんともと 日常に戻って行き、なぜ教会に行くのだろう等と疑問に思うこと、そんな日々がやって来ます。
◎そのような時、主イエスご自身が主の側から私たちに現れてくださるのです。主イエスは、まず嘆き悲しむマリ アに現れ、二度目は、疑い深い弟子たちに現れました。本当に人間的な弱さの中にうち沈むそんな弟子たちに主から近づいて下さるのです。いつも日常性の中に逃げ込ん で行こうとする私たちにも常に現れて下さるのです。
◎そのように目標を失った弟子たち(私たち)にイエス様 は訊ねられます。「何か食べるものはあるか?」何もありません、と応えるしかありません。そこでイエス様は何か 特別な指示ではなく日常の中の普通の指示をされました。 その主の命令に応じた時に違った結果が現れた。 主に従う時にのみ、私たちは新しい次元に導かれるのです