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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2020年5月3日
愛すること、羊を飼うこと、従うこと<ヨハネ福音書21章15~25節>

◎主イエスは3度にも渡ってペトロに問いかけられます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」 と。 ペトロ(=岩→後の教会指導者)になるはずの人物を かつての名前「ヨハネの子シモン」といまだに呼ぶのは、彼がそう成り切れていない故に、またそれ故にこその励ましと言えるかも知れません。 三度もです!それはペトロが3度も主イエスを「知らない」と否定した過去に関係しています。私たちなら見捨ててしまうであろう人物を主はなおも見捨てず、愛によって生かそうとされるのです。
◎3度も「愛するか」と問われた事にペトロはショックを受け悲しみます。 その悲しみは主の悲しみを知ることでもあり、「今度こそは!」と自らが大きく成長する契機とな ったでしょう。 更に「愛するか」の言葉に続けて主は同様に「わたしの羊を飼いなさい(世話をしなさい)」と3度も言い添えます。 即ち、「主を愛すること」と「羊を飼うこと(教会員の牧会)」は神の愛への応答の出来事とし1つのことなのです。これはいつの時代であっても牧者・牧師に問いかけられている言葉です。 ペトロは「行きたくないところへ連れて行かれる」と殉教をすら暗示されます。
◎「主よあなたは何もかもご存じです」には尊大であったペトロが謙遜へと変えられた告白が現されています。 主の愛によって打ち砕かれ、その愛によって生かされて教会に仕えて行くこと、それが「わたしに従いなさい」(=服従)です。それは牧師にとってだけではなく、すべての教会員が愛の共同体を建て上げて行く事に招かれているのです。 私た ちも各自に委ねられている賜物を主の愛によって更に確かなものとして教会のために生かして行きましょう。


2020年5月10日
精霊によって世を生きる」<ヨハネ福音書15章18~27節>

◎主イエスが十字架の直前に弟子たちに語られた言葉の一部です。世を去る前に、この世の憎しみの対象になる弟子たちを励まされました。弟子たちは、主イエスの言葉通り迫害を受けますが、主イエスの慰めの言葉、約束の言葉に支えられ、地の果てに至るまで、主イエスの証人となりました。
◎ 18 節の言葉は、弟子たちが迫害を受けるときの励ましだけでなく、必ず弟子たちを支え守って下さるという約束の言葉でもあります。
◎「憎む」には、「軽蔑する」という意味もあり、二つのうち一方を支持し、他方を棄てるといった使われ方もあります(例マタイ 6:24)。思想信条や文化の異なる相手を排除するというような憎しみという意味合いもありま
す。「世」とは世間一般だけでなく、神に背いてこの世を支配しようとする勢力も含みます。
◎「憎しみ」というのは、信仰から遠く離れているものではなく、愛と密接な関係があります。イエス・キリストご自身が憎まれ、十字架にかかられた。憎まれるのは、私たちクリスチャンがこの世に属していないからです。
◎この世界に出かけて行くことは、辛いところもあります。しかし、主イエスは、聖霊の助けがあると言われました。主イエスは、私たちの真の友となってくださいます。私たちの罪も含めて、全てをご存じの上で、なお愛し、受け入れて下さるお方です。この方と心の交わり、霊の交わりをいただき、励ましをいただくのです。主イエスにある希望を抱きつつ、既に勝利をとられた方と共に、この世界へと向かって歩み始めましょう。


2020年5月17日
父御自身が勝利なされる」<ヨハネ福音書16章25~33節>

 ◎「ヨハネ福音書」では14章より主イエスによる弟子たちに向けた「告別説教」が語り続けられ、本日はそのクライマックスである結論に到達します。「これらのことを」とありますが、14章以降で十字架・復活という語に一切言及せずに迫害による弟子の離散とその悲しみがこの世に対する勝利という喜びに変わる事が宣言されるのです。
 ◎「たとえを用いて」については大きく言えば、「ぶどうの木とその枝」について(15章)を指すでしょうし、直近の「産みの苦しみ」(21節)のことでしょう。 十字架・復活が分からない弟子たちにとっては、すべてが「謎」という意味では、謎解きを必要とする「たとえ」と言って良いでしょう。しかしもはや謎のままで放置して置けません。 弟子たちも迫害を受ける(15:19~)のですから、はっきり希望についても語る必要があります。 父の愛、御子の愛、祈るべき祈りと勝利の希望です。
 ◎「しばらくすると」(16:16)とあります。 そうです。私たちは弟子たちと同じように「しばらく」待つ。 忍耐する必要があるのです。 それは1分か1時間か、1年か10年か・・そのような時間の長さを忍耐し得るのは信仰なのです。「私たちは信じます」(30節)と弟子たちは言います。 しかし、人間の言葉の根拠は弟子たちがそれまでに、そしてこれから経験するように全く不確かです。主はそれらの曖昧さを問います。 「わたしをひとりきりにする時が来る」(32節)
 ◎信仰の根拠は「私たちは信じます」との自らの確信にあるのではありません。 そのような告白を可能にする主ご自身がこの世に勝利したという事実に拠るのです。 主は「既に勝っている」との言葉と十字架・復活の事実にあるのです。


2020年5月24日
生きた水が川となって」



2020年5月31日
精霊の降臨-新しさの支配へ」
<< 使徒言行録2章1~13節 >>
 
◎「新しい生活様式、ソーシャルディスタンス」という語がコロナウィルス惨禍の中で頻繁に聞かれるようになりました。それは単なるお題目でしょうか。旧約聖書に、そしてルカ福音書24章で約束された聖霊の賦与の様子がが劇的な形で描かれたのがペンテコステの出来事でした。 それは五旬祭の日が来た(原語→「満ちた」)時に起こりました。 即ち、神の時が満ちる形で訪れたのです。そして、「新しい生活様式」としての教会の時代が始まったのです
 ◎それは非常に劇的な形で起こりました。 まず「大きな音」として響き渡り、「炎(のような舌)」として人々に現れました。 それは突然の出現ではなく、「一同が一つになって集まっている」時の起きた出来事です。 聖霊が呼び起こされる神の時があるとともに、私たちの条件があります。 一つになって祈るのです。 主の群れは小さく、弱さの中にあって無力です。 それは十字架と復活の時の弟子たちの姿を見れば明白です。 聖霊は主の一方的賜物として与えられたのです。そこから教会は真の出発ができたのです。
 ◎その時、聖霊の働きとして言葉が与えられます。 ガリラヤの漁師から始まった福音が四方八方(地名は全方位を示す)へ拡がって行きます。 解り合える筈のなかった言葉の壁を聖霊はいとも簡単に打ち破り、乗り越えて拡がって行くのです。 聖霊はコミュニケーションを可能にします。
 ◎そして全世界の人々は「神の偉大な業」が語られるのを聞くのです。ペンテコステの教会は世界宣教の教会となったのです。 狭い民族主義を越えて、主の愛と赦しに根ざした教会です。 それを「あざける者」も居るでしょう。 しかし、聖霊に守られる時、主の教会は力強く前進するのです。