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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2020年6月7日
信仰の戦い」<< Ⅰテモテ6章11~16節 >>

◎この時テモテは、エフェソの教会を牧会していましたテモテは精神的にも、肉体的にも、弱さを抱えており、信仰面で怖気づいてしまうこともありました。テモテは パウロにとって忠実なわが子と呼ばれる者でした。神の言葉に対して忠実に従うテモテをパウロは「神の人」と呼んでいます(6:11)。

◎聖書の中で、モーセやエリヤ、エリシャ、ダビデなどが「神の人」と呼ばれており、新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。若く苦労していたテモテにとって、大きな励ましになったことでしょう。

◎神の人として、信仰の戦いを立派に戦い抜くために「これらのことを、避けなさい」と直前の箇所で、「金銭の欲」「ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争い」とパウロが挙げています。「避ける」だけでなく「正義(救い)、信心(敬虔)、信仰、愛、忍耐(神のもとに留まり続ける)、柔和」を追い求めるものを挙げています。愛、忍耐、柔和はガラテヤ 5 章にある霊(聖霊) の結ぶ実の中にも見られるものです。信仰も自分の力によるのではなく、聖霊の働きです。(Ⅰコリント 12:3)。
◎最後に、イエス・キリストの再臨のときまで、「非難されないように、この掟を守りなさい」(6:14)と厳かに命令を与えています。そして定められた時に、「キリストを現してくださいます」(6:15)と言います。その確信を持って、「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方である神(6:15-16)を心から讃美しましょう。


2020年6月14日
信仰は聞くことにより
<< ローマ10章5~17節 >>

◎「主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。」(詩 122:1)と、悲惨な捕囚から帰還したユダヤ詩人が唱った喜びを私は本日、心から共有します。 12週振りに礼拝堂で共に主を礼拝する恵みは何と素晴らしいことでしょうか! コロナ禍は私たちに主にあって共にあることの祝福を教えてくれたのではないでしょうか。
◎私たちが何ごとであれ熱心になる時、自分を見失ってしまって他者に批判的になり勝ちです。 ユダヤ人たちの律法に対する熱心がそれに当てはまります。 パウロは「律法は一体何のためにあるのか?」と批判します。 そしてパウロは断言します。 「キリストは律法の目標」だと(10:4)。
◎極度に律法(の行い)を強調する人は口先だけの生き方を嫌悪する傾向があるのはやむを得ません。しかし、パウロは敢えて信仰の出発を「口から」と主張するのです。 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で・・・信じるなら、あなたは救われるからです」(10:9)。 「公に言い表す」とは決して簡単なことではありません。 それは神と人の前で責任をとり続けるという決断の表明でもあります。 信仰とは人間の内面で納めておけば良いという問題では決してありません。信仰とは自己満足ではなく、社会的責任を伴うものなのです。 教会が信仰共同体である意味はそこにあります。
◎次に伝えるという使命(=伝道)が教会にはあります。 伝道はまさに語り伝えることが出発点なのですが、私たち信仰者もまた「語り伝えられた」事柄(=福音)を聞くことから始まりました。 「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(10:14)ここにも教会の基本的使命があり、伝道者が立てられている決定的意味があるのです。



2020年6月28日
揺り動かされない方に向き合え
<<ヘブライ12章18~29節 >>

 ◎ヘブライ書の中でも「信仰」の章と呼ばれる11章には旧約聖書中のたくさんの人物に言及されます。 それらの人物たちがいかに「信仰によって」生き抜いたかが語られています。 その背景には当時の教会がローマ帝国の激しい迫害に遭遇して疲れ切っていたという状況があります。どのようにしたら生き残れるのか?「信仰によって」でしかないのです。 そのような意味でヘブライ書は「励まし・慰め」の書簡でもあります。
 ◎しかしこの「信仰の章」の最後は「彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:40)と締めくくられます。 がっかりさせるではありませんか。ではどうしたら良いのか?と。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走り続ける必要があるのです(12:2)。 これは競争=マラソンのレースに例えられます。 信仰のゴールは順位を競うことではありません。 ただ走り抜くことです。 それだけがご褒美で賞賛に値するのです。そして「(一緒に)忍耐強く走ろう」(12:1)と呼びかけるのです。伴走者もおられるのです。
 ◎本日の12章の後半で勧められているのは「聖なる生活」(12:14)です。 それは私たちの中に備わっているものでは決してありません。 私たちは汚れた罪人でしかないからです。 「モーセすら、おびえ震えた」(12:21)山(=律法の象徴)に近づくことによってではなく、「天のエルサレム」(=教会)に近づいたのです。 それは一度限りの血を注がれた「新しい契約の仲介者イエス」(12:24)に拠ってなのです。
 ◎ですから私たちはこのお方を「拒むことのないように気をつけ」なければなりません。 このお方はこの天と地をもう一度揺り動かし、やり直すことのできるお方なのです。