2020年8月2日
「神の国は、義と平和と喜び」<< エフェソ2章11~22節 >>
◎パウロは未だ会ったこともないローマの信徒たちに向けて長い手紙を書きました。 その前半はキリスト教の教えの中心です。 そこでは「信仰による義」というキリスト
の核心部分について長い議論を費やします。 これは長らく教会の中で行いによる義に取って代わられ、ルターによって改めて再発見されたことで知られています。
◎パウロのどの手紙でもそうですが、教えのあとには実践(行い)の薦めがあります。 12章以下がそれに当たります。 今日の14章は後半を採り上げましたが全体でひとつの大きなテーマを扱っています。
それは教会の中で「信仰の弱い人」たちを裁かないで受け入れよう(原語は歓迎する)ということです。 「信仰の弱い人」とは食物規定 (この場合、菜食主義)や暦に極度にこだわって生きる人たちです。
福音はそのような縛りから人間を自由にする筈です。 しかし「信仰の弱い人」は自由になりきれず、その「弱い人」たちを批判する人で教会は分裂していました。
◎そのような亀裂の入った教会を修復できるのは、愛の福音です。 パウロは先ず「食物規定」に拘る人たちに神の創造されたものに「汚れたもの」はないこと、また「強い人」
たちには、彼らを批判するのではなく、「つまずきとなるもの」を彼らの前に置かないことも薦めます。 パウロは非常に具体的な指示、勧告を愛に基づいて行います。
◎「愛に従って歩む」こと、それは人をつまずかせないだけで終わるのではなく、教会を建て上げて行きます。 迫害下の教会にとって宣教は裁き合いではなく良きワザの積み重ねです。
「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」が生み出されるところに神の国は生まれるのです。
2020年8月9日
「主の体をわきまえる」<<Iコリント11章23~29節>>
◎主の晩餐が制定されたのは、主イエスが「引き渡される夜」でした。主イエスが逮捕され、十字架につけられ、殺されるという受難全体を示しています。パンは十字架につけられた主イエスの体、杯(ぶどう酒)は流された血潮を表しています。主の晩餐の目的は主の「記念(想起)」です。それは過去の出来事ではなく、現実の中での出来事として捉える必要があります。
◎「ふさわしくないままで」は「主の体のことをわきまえず」と言い換えられています。主の晩餐のパンと杯において、主イエスの体と血とに本当にあずかるのだ、ということをわきまえることです。
◎コリントの教会において、豊かな者が貧しい者に恥をかかせ、自分たちの喜びや満足のみを求めているという大きな問題がありました。自分と違う者を受け入れず、共に歩もうとしないことが、コリントの教会で起こっており、主の体をわきまえないで飲み食いしていると、パウロは指摘しているのです。
◎主の晩餐を通して、主イエスの十字架による罪の赦しの恵みにあずかると同時に、死の力を打ち破り勝利を与えて下さった、復活の恵みにもあずかるのです。主イエスは、今も生きて共にいて下さり、私たちの体全体がその交わりの中を生きるのです。
2020年8月16日
「世に打ち勝つ勝利」<<Iヨハネ5章1~5節>>
◎主イエスをメシア(キリスト・救い主)と信じる者は、神によって新しく生まれた者となります。愛の神によって生まれた私たちに、神は愛を備えてくださり、私たちは神の言葉によって育まれ、成長し、神を愛し、同じ神によって生まれたキリスト者の兄弟姉妹を愛する者となっていくのです。
◎互いに愛し合うという「神の掟」(3:23-24)は、イエス・キリストに赦された喜びに立って、互いに分かち合うなら難しくないはずです。しかし、自分の力でやろうとすると困難になり、負担になるのです。私たちに信仰を与えて下さった聖霊により、神が私たちを成長させて下さることを信じ委ねて、神に敵対する「世」に打ち勝つのです。「世」とは悪魔の支配、罪と死の支配にある領域です。
◎「神から生まれたもの」キリスト者・教会は、イエス・キリストの十字架と復活によって、「世」悪魔の支配、罪と死の支配に打ち勝つのです。 神は主イエス・キリストを遣わされ、十字架で死なれ復活された主イエス・キリストによって、世に打ち勝たれたのです。勝利された主イエスキリストを信じる信仰によって、私たちも世に打ち勝つのです。
◎私たちには、病気、災害、経済的な問題、人間関係の問題等、様々な苦難があります。イエス・キリストを神の子、救い主と信じる私たちは既に世に勝っているので、主イエスを信じ、愛に生きる信仰が世に打ち勝つのです。私たちの主が既に世に勝っておられます。恐れず、歩み続けてまいりましょう。
2020年8月23日
「成長させてくださる神」<<Iコリント2章11~3章9節>>
◎パウロは、主イエスの十字架によって私たちの罪が赦され義とされるという「神の知恵」をコリントで語り、教会が建てられました。パウロが去った後、教会内部の分派争い、道徳上の乱れ、キリスト教徒の自由の誤用、教会の集会における混乱、復活理解の問題が起こりました。ギリシアの文化の考え方や生活様式が信仰理解に影響を与えていました。
◎私たちに、「隠された神秘」としての「神の知恵」が明らかに示されたのは、「神の霊」、聖霊の働きによるものです。イエス・キリストを信じる者は、神の霊、聖霊を受けるのです。その聖霊が「神の深み」をも探り知る働きをするのです。神の霊を受けた者であるなら、神の知恵をわきまえた、成熟した人になろうではないか、とパウロは呼びかけているのです。
◎コリントの教会の人々は、パウロやアポロといった優れた指導者と結びつくことで信仰を成長させることができると考えました。しかしパウロは、成長させてくださる神によるのだと語ります。自分で自分の信仰を成長させて行くのではありません。優れているわけでもない罪人の私たちは、神の憐れみと恵みにより、主イエスの十字架と復活によって罪を赦され、神の民とされたのです。
◎教会また私たち信仰者は、「神の畑、神の建物」です。私たち一人一人の上に、神様が御言葉によって恵みの御業を行って下さり、神様が私たちを集め、教会という神の建物を建てあげて下さるのです。私たちの上に、成長させて下さる神が働いて下さいます。神の働きが私たちの内にますます働き、成長させていただきましょう。
2020年8月30日
「新しい生き方」<<ローマ7章1~6節>>
◎信仰によって義とされた者は、律法とその働きの下にはなく、聖霊の支配の下にある。そのことを、結婚関係の譬えを用いることによって、パウロは説明します。聖書が示す倫理的・道徳的基準に従って生きる事が、キリスト者としての信仰生活と考えるなら、律法主義的生活になり、自らを偽善者として責めながら生きることや、苦しみを感じる中で、信仰の歩みから離れるといったことが起こります。
◎「律法を知っている人々」の「律法」とは、ユダヤ教の律法に限定されず、一般的な概念の法律を含みます。律法(法律)というものは、生きている人を支配するものであって、死んだ人を支配するものではありません。
◎パウロは、そのことをローマのクリスチャンたちもよく知っている結婚関係の譬えによって語ります。「結婚した女」とは、男性の権威の下にあって服従する女性を意味する言葉です。当時、結婚した女性が夫から自由になるのは、夫が死んだ時からです。「律法に対しては死んだ者となる」は、私たちが死んだのは、神の業によるのであり、一度限りのことであるということです。わたしたちは信仰によって、死者の中から復活されたキリストと結ばれて、律法に対して死に、神に対して実を結ぶようになるのです。
◎キリスト者は、人間の業ではなく、神の救いの恵みの業を土台として、聖霊によって、新しい生き方が始まる、聖化の歩みが進められて行くのです。聖霊に従う歩みは、今までの古い自分に捕らわれず、自分を捨てる新しい生き方で神に仕える歩みです。
|