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日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2020年9月 6日  
「賢い者として歩む」<<エフェソ5章11~20節>>

◎8節から14節では「光」が鍵となっています。かつて私たちは暗闇であったが、今は主にあって光である、という私たちの現在が語られています。しかし「光」である私たちは、暗闇であった自分を自らの力で克服したのではありません。キリストの光が、死と暗黒の中にいた者を照らし、新しい命の中によみがえり、「光」となったのです。
◎「光の子」として生きる「賢い者」の賢さとは、神から与えられた知恵をもって生きる事です。「細かく気を配って歩む」という言葉は、「注意深く慎重に見極める」という意味です。私たちに与えられている「時」は終末へと向かって進んでいる時です。酒に酔ってしまうように、「時」の感覚を麻痺させてしまわないように、「霊に満たされ」る必要があります。
◎「霊に満たされる」とは特異なことではありません。「詩編と賛歌と霊的な歌」は、コロサイ3:16にもあります。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」。讃美、神をほめたたえることは礼拝です。主を礼拝する生活が、霊に満たされる歩みです。
◎私たちは、終末の時へと向かって生きています。時を賢く用いながら、主の恵みの御手の中で生かされている喜び、感謝をもって歩みたいものです。主イエスの十字架と復活の救いの中に生きる者として、主を礼拝しつつ、御言葉に養われ、霊に満たされ、主イエスの光に照らされた光の子・「賢い者」として歩んでまいりましょう。


2020年9月13日 
「主の神殿に立ち」




2020年9月20日 
「自由な人、神の僕として生きる」<<Iペトロ2章11~25節>>

◎キリスト者は、この地上では旅人であり、仮住まいである。旅人だからこそ、この世の事柄に支配されることなく、この世にしがみつくのでもなく、自由に生きることが出来るのです。肉の欲を避けなければ、「人間の欲望」(4:2)が自己を神とする偶像崇拝的な生活を生むことになる。キリスト者を悪人呼ばわりする者も、キリスト者の立派な行いを見て、訪れの日、主が再び来られる日には、神をあがめるようになるのです。
◎この世の生活を忠実に続けることが、キリスト者として良き証し、立派な行いになるのです。それは世界を創造された主が、すべてを完全に治めて下さるという信仰に立っているのです。地上においては様々なしがらみがあるが、キリスト者は「神の僕」として歩むのです。他の何人に対しても自由に振る舞える者となるのです。
◎「召し使いたち」は、家庭の一員のように扱われていた奴隷身分の使用人のことです。不当な苦しみを受けるとき、簡単に逃げ出すことができないことがあるでしょう。不当な苦しみに耐えるつつ、積極的に善を行うことは、神に受け入れられる恵みであり感謝なのです。
◎イエス・キリスト自身が不当な苦しみを受けられました。21節後半から25節までは、イザヤ53章をもとにした当時の教会の讃美歌であったとも考えられています。魂の牧者であり、監督者である主イエス・キリストのもとに立ち返ったキリスト者は、そのキリストの模範に従って生活するように召されているのです。私たちは主の恵により、不当な苦しみから解放され、主が与えて下さった自由な人、神の僕として歩むことができるのです。



2020年9月27日 
「キリストの愛に根ざし、愛に立つ」<<エフェソ3章14~21節>>

◎エフェソ書全6章の内、前半3章はキリスト教の教え(教理)が力強く語られます。 4章からの後半部は「あなたがたに勧めます」(4:1)とあるように私たちのライフスタイルと深く関係する実践面での教え(倫理)が語られます。 パウロは3章の教えの最後を祈りで締めくくろうとします。「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」(14 節)と。 どんな高尚な哲学や理論を語ったとしても、最後は神の前に「ひざまずく」姿勢がないと人々に説得力は生まれません。
◎エフェソ書はエフェソという地名が冠されていますが実際には各地の教会で回覧されて読まれたと考えられますが、パウロの頭には伝道旅行で出逢った信徒の人たちの顔が浮かんでいたことでしょう。 「あなたがたの」と呼びかけている言葉には深い愛情が込められています。 だからこそ「キリストを住まわせ」(17 節)という言葉が力を帯びて来ます。 エフェソでは大きな事件が起きたことが報告されています(→使徒 19 章)。 女神アルテミスを祀る神殿を前にパウロは偶像と戦ったからです。
◎私たちの身の回りにも様々な偶像が満ちあふれていま。それらを貶そうものなら大変なしっぺ返しが待っているでしょう。 しかし恐れていては何も起こりません。パウロはアテネでも偶像崇拝と空虚な哲学と戦いました(→使徒 17 章)。 「(キリストの)愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」となる時、キリストの愛そのものが、人々の心を打ち砕き、和解とそればかりか戦いの勝利へと導くのです。
◎それほどの「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 を経験しているでしょうか? 私たちは家族や他者のために祈るとき、このキリストの愛の満たしを先ず求めましょう!