阪南キリスト教会 / hannan christ church
2020年10月4日 「はかりがたい神の富、知恵、知識」<<ローマ11章33~36節>> ◎ローマ書11章にはパウロがその出自であり、前半生の自らの生涯を賭けて来たユダヤ人たちの救いについて、まさに情熱的に語りかけます。「神はご自分の民(*イスラエル)を退けられた」のでは決してない(11:1)。恵みの選びによって神の愛と祝福は注がれ続けているにもかかわらず、つまずき倒れてしまいました(11:11~)。しかしその事実は結果的にユダヤ人だけでなく異邦人にも救いが及んで行く事になりました。 もちろん、その事も神の計画でした。 ◎しかしパウロの同胞たちへの真摯な願いはイスラエルが倒れたままで終わるのではなく、イスラエルが再び立ち上がり、再興して行くことです(11:25~)。 それは決して容易な道のりではありません。 「福音について言えば、イスラエル人は・・・神に敵対していますが、神の選びについて言えば、・・・神に愛されています」(11:28)。 福音、すなわち主イエスの復活に預かる救いについては律法を盾として、断固受け入れようとしい悲しい現実があります。 パウロの悲痛さです! ◎しかし、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(11:29)。この断言には何と胸震える荘厳な響きがあることでしょう! 神が選ばれた事実ーそこにはもちろんイスラエルのみならず私たちも含まれますーは決して変わらない! 時と場所を越えても変わらない。 私たちがここに存在する意味はまさに神の一方的な愛と選びの故です。 ◎語り尽くせない神の愛! その「富と知恵と知識のなんと深いことか」(11:33~)。 極めがたい存在というものは、ある面では恐怖、脅威の対象です。 しかし私たちは怖れる必要は一切ない。 なぜなら「神は愛」だからです。 この神の故に全き信頼を以て「アーメン」と頌栄を捧げるのです。 2020年10月11日 「天から与えられるすみか」<<IIコリント5章1~10節>> ◎パウロは4章後半から引き続き、信仰者に与えられている希望について語る。「わたしたちは落胆しません(疲れ果てない)」(4:16)、「わたしたちは心強い(自信、勇気がある)」(5:6,8)とは、復活した主イエスへの信仰によって与えられる揺るぎない希望に立つ歩みなのです。 ◎死は苦しみや悲しみ、恐れを感じさせます。恐れや不安は、それを超えた先を見ようとしない傾向が見られることがあります。パウロは信仰者の死を、仮の住まいである「幕屋」から去り、人の手によらない天から与えられる住みかに移ることだと喩えます。聖霊の宮である「幕屋」から神の用意された永遠の住みかに移されるのです。私たち信仰者には、肉体が滅んでも、復活の栄光の体が与えられるという希望があるのです(フィリピ3:20-21)。 ◎私たちの現実は不安があったとしても、霊の保証を神は与えて下さっています。私たちが聖霊を受けていることは、キリストの命に飲み込まれていることの保証なのです。保証とは手付金という意味で、全額ではなく一部の前金なのです。完全ではないけれども、主にある希望を味わう信仰の歩みが与えられているのです。 ◎私たちの死後が大事であって、今の生活が無意味ではありません。私たちは皆、キリストの裁きの座に立ちます。しかしそれは地上の生活に対する「報い」であって、「救い」ではありません。神の愛、キリストの愛の中で、私たちの歩みは支えられ「目に見えるものによらず、信仰によって歩む」者に勇気を希望を与えて下さり、肉体は衰えたとしても「内なる人は日々新たにされ」主に喜ばれる者へと造り変えられるのです。 2020年10月18日 「主イエスを知る喜び故に」<<フィリピ3章7~21節>> ◎フィリピという町はギリシアの植民都市で古い歴史を持ちます。 パウロはシラス、テモテ、ルカと共に、第2回伝道旅行の際にここに短期間滞在しました。使徒言行録16章に拠ると、紫布の商人リディアとその家族が信者となり、その後パウロらが占いの霊に憑かれた女奴隷のいやしの事件で投獄された時、パウロたちの導きによって牢の看守とその家族も救われる、という奇跡も起きました。 ◎今、パウロはローマの獄中にあって、これらの出来事に思いを馳せながらこの手紙をしたためています。 投獄という辛い体験にも関わらず、「喜びの手紙」と呼ばれるほどに感謝に満ちあふれた内容であるのは何故でしょうか。 ◎パウロは自分のユダヤ人としての出自を語ります。それはエリート中のエリートのそれと言っても良いものでパウロにとっては誇るべきものでした(5~6 節)。 しかし、「キリストのゆえに・・・それらを塵あくたと見な」すようにさえなったというのです(8 節)。 皆さん、自分の中で大切だと思っていたもの-価値観-がひっくり返されるという経験をされたことがあるでしょうか。 パウロにとっては「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義」(9 節)を知る体験でした。 これは神からの一方的な恵みの贈物でもあります。 この信仰にいったん生かされた者はもはや自らの欲望にではなく、神の与え賜う目標を目指します。 ◎それは「目標を目指してひたすら走ること」(14 節)です。 具体的には「死者の中からの復活に達」っする事と言い換えられます(11 節)。 それは、人生において到達できるレースではありません。過去に目を向けるのではなく、未来に向かって「全身を向けつつ」走り続ける事、それが信仰なのです。 2020年10月25日 「創造主としての神の知恵」<<箴言8章1,22~31節>> ◎私たちの実生活において様々な問題や困難が起こります。このような課題に対処するためには、問題を見分ける力や知恵が必要です。真の知恵と知識は神を敬い、神に従うことを通して神から与えられるのです。 ◎8章では、知恵が擬人化されて、人格的な用語を用いて知恵自身が語ります。知恵は、人々が行き交っている町のいたるところで人々に呼びかけています。神は私たちを諭し、豊かに実るように手入れされるかのように語り続けておられます。 ◎22節からは、知恵が天地創造の初めから神と共にあったことが語られる。「造られた」(22節)には「取得する」という意味もあります。ヨハネ福音書では、知恵の存在を「言(ことば)」と表現しています。知恵・言は御子イエス・キリストを指しています。ヨハネ1章1節の「言は神と共にあった」の「共に」とは、「お互いに向かい合って、永遠に信頼している関わり」です。父なる神と御子イエスとは、永遠に顔と顔が向き合っている存在です。神にかたどって創造された私たち人間も神とのかかわりにおいて、本来の姿は顔と顔を合わせた関わりなのです。 ◎知恵は私たちに要領の良い生き方をして得をするように語っているのではありません。主イエスの生涯は、謙遜であり、義であり、十字架の愛です。しかし、「わたしを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる」であります。主イエスを救い主と迎えるなら、主イエスは私たちの人生を支え、私たちの人生の土台を揺るぎないものにする知恵、となって下さるのです。 |