阪南キリスト教会 / hannan christ church
2020年11月1日 「わたしをおいて神はない」<<イザヤ書44章6~17節>> ◎昨31日は「宗教改革記念日」でした。 Mルターは500年前のこの日、「95ケ条の提題」をヴュッテンベルグ教会の門に貼り付けました。 それを契機として、ローマカトリック教会を揺さぶる教会改革の嵐が全ヨーロッパに拡がって行きます。 ルターには「教会を改革してやろう」という気持ちがあったワケではありません。自分の罪の問題と深く向き合い、聖書を何度も読み返す中で信仰による神の義こそが、自らの救いにつながる事に気づかされて行くのです。 ◎宗教改革は三つの「のみ(ラテン語で sola)」原則によって言い表すことができます。 「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」です。 私たちプロテスタントは彼の遺産に大きく負っています。 教会の中で改革と(後に)呼ばれる運動は本人が意識して推進したというよりも、聖書の真実を追究する中で、真理そのものが真理を取り戻そうとした運動と言えます。 そしてその事は私たちの信仰だけでなく、私たちの教会にも常に改革を迫り続けます。 ◎ John Wesley のメソジスト運動や B.T.Roberts のフリーメソジスト運動も本人が始めたというよりも、神さまが始めたと言ったほうが良いです。 いつも聖書という原点に戻って行く時に神さまがその答えを用意していて下さる。 だから私たちは聖書から離れない決意でいるのです。 ◎イザヤは「わたしをおいて神はない」との預言を頂きます。あまりにも多くの偶像が満ちあふれていたからです。 これは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エ 20:3)の確認に他なりません。 私たちも聖書信仰の原則確認を常に怠らない改革者であり続けねばなりません。 2020年11月8日 「栄光を与えてくださる主を仰ぐ」<<創世記13章1~18節>> ◎アブラムはエジプトを出て約束の地へ帰還します。アブラムは「非常に多くの家畜や金銀を持っていた」が、彼の偽りによって得た持ち物でした(12:10-20)。その偽りの責任は免れましたが、傷心の帰還でした。ネゲブ地方からベテルへと向かい、ベテルとアイとの間の最初に祭壇を築いた場所に来た(12:8-10の逆コース)。主の御名を呼ぶ、回復への道でした。それは「上る」(1)「来た(行く、歩く)」(3)という、元に戻るというよりも足を踏み出し前進する姿勢でした。 ◎アブラムとロトの家畜が多くなり争いが生じた(7)。アブラムは争いを避けるために、住む土地をロトに選択させ、ロトは潤っている東へ移りソドムに、アブラムは痩せた高地のカナン地方へ移り住んだ。 ◎アブラムはロトと分かれた後、主は「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われた。以前(12:7)はカナン人の住む地であったが、今度は見える限りの土地をあなたとあなたの数え切れないほどの多くの子孫に与えると約束された。アブラムは神様の約束を信じて立ち上がり、祭壇を築いた。 ◎ まだ土地も子孫もいない中で、アブラムは主の言葉に従い、目を上げ主を仰ぎました。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ 8:30)。アブラムは主に召し出され、信仰によって義とされ(15:6)、祝福を約束して下さいました。私たちも主の言葉に立ち、主に召された者として、栄光をお与え下さる主を仰ぎつつ、歩んでまいりましょう。 2020年11月15日 「主の言葉を見分けるために」<<申命記18章15~22節>> ◎「あなたは心の中で、「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。」(21節)。 神さまは私たちの心を見抜いておられます。 私たちの不信仰は神さまの言葉への信頼の有無から生まれます。しかし、その不信仰に至る人間の弱さをもご存じです。私たちは言葉の洪水の中に生きています。 その中で真実なものを見分ける知恵を持たねばなりません。 ◎「預言」という語は「言」葉を「預」かることです。 言葉とはもちろん神の言葉です。 それは「予(あらかじ)め」語る「予言」とは明確に区別されなければなりません。「予(あらかじ)め」=事前に語ることをも含みますが、何よりも本質的なことは神のメッセージがそこに現れ、正しく人々に語られているかが最も大切なのです。 ◎旧約聖書には偽りの予言者と戦う神の預言者がたくさん描かれています。エレミヤ書にはエレミヤと対決するハナンヤという人物が描かれていました(28章)。 耳障りの良い言葉は一時的には人々の心をくすぐりますが、それは真の救いとはほど遠いのです。 預言は将来の審判を語るものもあれば、希望を語るものもあります。 私たちの心の隙間にサタンが易々と忍び込むようにカルト(異端や偽宗教)が入り込み、それらはいつの時代にもはびこります。 ◎それでは一体何を信頼したら良いのでしょうか? 歴史に学ぶことです。 歴史の試練の中で生き残って来た「聖書」に真摯に向き合い、「教会」の導きの中に生きることです。 Jウェスレーは理性(常識)も神に与えられた賜物として、正しく用いることを勧めます。 そして聖霊の導きを求めて祈ることを忘れてはならないでしょう。 2020年11月22日 「先頭に立たれる主」<<ミカ書イザヤ2章12~13節>> 2020年11月29日 「主の光の中を歩む」<<イザヤ書2章1~5節>> ◎イザヤ(「主は救う」の意味)は先週のミカと同時代の預言者です。本日の聖書箇所とほぼ同じ内容の預言が、ミカ書4:1-3にもあります。イザヤがこの預言を語った時、エルサレムはアッシリアの攻撃を受けたが、捕囚を免れ、独立を維持することができました。しかしエルサレムは、1章4-9節に記されているような状態で、イザヤは主の裁きを受けることを告げました。しかしイザヤは、主の約束は変わらないことを告げます。 ◎「終わりの日に」とは終末的未来のことで、「切迫している未来」のことです。主イエスがこの世界に来られたことによって、神の国、終末が始まっているのです。国々の多くの民がこぞって主の神殿の山に登ってくるのは、主を世界の王、主権者として認め、受け入れているからです。主の示される道を求め、主に従って歩むためです。「主の教えはシオンから」「御言葉はエルサレムか ら」語られるのは、その道を歩むためです。 ◎そこに集う者たちに、主は喜びと慰めを与えられます。詩編46編。その喜びは、主が裁かれ戒められることによって、国が国に向かって剣を上げない平和がもたらされことによるのです。 ◎イザヤは、主に一度捨てられた民に向かって「ヤコブ の家よ、主の光の中を歩もう」と語ります。主の御言葉に聞き、主に礼拝する生活が「主の光の中を歩む」生活となります。「光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)、神のご計画と御心を知るものとして歩むのです。私たちは終末に生きる民として、平和の君が来られることを待ち望みましょう。 |