阪南キリスト教会 / hannan christ church
2021年1月3日 「出エジプト、再び」《マタイ2章13~23節》 ◎主イエスの父ヨセフはマリアの受胎の知らせを夢で受けた時もそうであったように、今日の箇所でも危険が我が子に迫る中、主の天使の言葉に「起きて・・・」従いました。 この語はアブラハムが息子イサクを献げるようにと命じられた時に「朝早く起きて・・・」(創22:3)と同じく、すぐに服従したことを意味しています。 信仰とはまず、疑わずにすぐに服従することを意味していることに目をとめましょう。 ◎本日の記事はヘロデ王の幼児虐殺という痛ましい背景がありますが、これはモーセがエジプト王の幼児虐殺令から逃れてカゴに隠してナイル川に浮かべられて助かったという体験と共通しています。 危機から救われるという救済経験はもちろん神さまのご計画の一部にほかなりませんが、私たちはその神さまの働きに従順に参加して行く主の父ヨセフの信仰があることを知るべきです。 ◎出エジプトはもちろんモーセの働きに拠るところが大きいのは言うまでもありませんが、アブラハムの出エジプト体験(創12:11~)に言及することも意義あるでしょう。彼は約束の地カナンに飢饉という危機が訪れた時にエジプトに逃れます。 しかしそこでの生活は妻サラを妹だと偽ってエジプト王に取り入るという恥ずかしいものでした。 エジプト王にその事実がばれた時、出エジプトせざるを得ませんでした。 その結果は逆にアブラハムに富と祝福をもたらし、神の計画は続いて行ったのです。 ◎私たちの日常生活においても、数々の出エジプト体験があります。 神さまの招きにすぐに応じて行くと神さまのご計画が開かれて行くという体験です。この小体験を積み重ねることで、私たちは信仰に成長して行くのです。 2021年1月10日 「主イエスの洗礼」《マタイ3章13~17節》 ◎マタイ3章は、洗礼者ヨハネの宣教活動から始まります。ヨハネは神の恵みだけが希望となる荒れ野で活動していました。ヨハネの働きは、主イエスの先駆者としての働きでもありました。ヨハネは、彼の後に来る方を「霊と火とであなたたちに洗礼をお授けになる」(3:11)と告げました(ヨエル3:1、マラキ3:2)。 ◎ヨハネのところへ、主イエスが洗礼を受けるために来られたが、神の御子イエスは、罪を悔い改める必要の無いお方なので、ヨハネはそれを止めようとした。しかし主イエスは神の御心に適った正しいことだと、ヨハネを説得しました。主イエスご自身がへりくだられて、私たち罪人と一体となってくださったのです。私たちが受ける洗礼は、義なるキリストと一体化する「しるし」です。どれほど罪が大きくても、主イエスが全てを覆って下さるのです(ガラテヤ3:27)。 ◎主イエスが洗礼を受けられ、水の中から上がられると「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。私たちが主イエスと一体とされ、主イエスを着たのであれば、神は私たちを主イエスを通して見て下さり、私たちを神の御子である主イエスに似たものへと変えていってくださるのです。 ◎ 主イエスは「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けなる」(3:11) お方です。ヨハネは罪の問題を指摘する預言者でしたが、主イエスは私たちを心から癒やして下さるお方です。主イエスが神に愛された御子として、私たちの悲しみ、痛み、罪を担ってくださり、私たちを新しく造り変えて下さるのです。 2021年1月17日 「あらゆる病に苦しむ人々の中へ」<<マタイ4章18~25節>> ◎最初の弟子たちを招かれるという良く知られた記事です。 とても簡潔に描かれています。 何気なく読み過ごしてはいけません。 「天職」という語を使ったりもしますが、すべての人が神さまから招かれているということを意識しているワケではありません。 しかし、神さまから招かれているという事を知る時、真の生きる目標が生まれます。 ◎「ご覧になった」という語が二度、使われています。 招かれた4人の漁師たちは普段通りの仕事をしていました。網を繕ったりしている姿を主イエスは「ご覧になった」のです。 特別な晴れ姿を見ていたのではありません。 ガリラヤの普通の漁師たちが選ばれ、招かれたのです。 特別な事をする必要はありません。 主は日常生活の中の私たちを招かれ、主の働きへと導き出されるのです。 ◎特別に優秀な人たちを招かれたのでもありません。 そうしたらもっと速やかに伝道のわざが進んだのでしょうか? 主は漁師から始められました。 当時、世界を支配していた皇帝や高官、ヘロデ大王には目もくれず、悩み苦しみながら市井に生きる漁師を選ばれたのです。 即ち、誰でも主の働きへと導かれ尊い器として用いられるのです。 ◎彼らは「すぐに」応じます。 「すぐに」は瞬間的な応答を意味しますが、「従う」に焦点を当てると創造者なる御方の目的に応じて生きる事です。 神さまが私たちを創られたのですから神さまが最後まで面倒を見てくださる筈です。 ◎何のために招かれているかと言うと、 三つの働きと言われていますが「教え」、「宣教・伝道」、そして「病の癒やし」です。人々の中へ出かけて行くのです。 あとは神さまがなさる業ですので安んじて委ねましょう。 2021年1月24日 「暗闇に光が差し込んだ」<<マタイ4章12~17節>> ◎主イエスの宣教は、洗礼者ヨハネが捕らえられたことで、主がナザレからガリラヤへと退かれたことから始まりました。自分の思い、考えを退けて、神様が導かれるところへ従って行かれたのです。後退しているように思える状況であっても、福音は前進して行くのです。 ◎主イエスの宣教開始の出来事は、イザヤ書9章1,2節が成就したと語られます。ゼブルン、ナフタリはイスラエル12部族の名前で、ガリラヤ地方が彼らに割り当てられました。ガリラヤ地方は、イスラエルがアッシリアとの戦いに敗れ、植民地政策により、多くの外国人が入植してきました。また、この時代にはエルサレムを中心とする南のユダヤ人が入植していたので、民族的にも信仰的にも南のユダヤ人と結びついていましたが、ユダヤ人からは軽んじられていました(ヨハネ7:52)。 ◎ユダヤ人の目から見るなら、「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」と表現されるような地域ですが、「大きな光を見」「光が射し込んだ」と将来の回復が約束されていました。このイザヤ書の少し先の9章6節には、主イエスの誕生について預言されています。神は見捨てることなく、このガリラヤから救い主を起こさせ、活動拠点として用いられるのです。 ◎主イエスは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と、闇を照らす光となって来て下さいました。「悔い改め」とは向きを変える、方向転換するという意味です。射し込んだ光に、どのような応答をしているでしょうか?この後、主イエスは弟子たちを招かれました。 もっとも弱く、貧しい者を選び、救いの業を成して行って下さるのです。 2021年1月31日 「完成するために」<<マタイ5章17~20節>> ◎5:16で「立派な行い」をするように主イエスは言われました。人々は主イエスの律法に対する自由な態度、宗教指導者たちとの対立から、それらを打ち壊すような期待があったやもしれませんが、主イエスは「律法や預言者を完成するために」来られたのです。 ◎律法の教えに熱心に守っていた「律法学者やファリサイ派の人々」は、「立派な行い」に生きている人々でした。しかし彼らは天の国に入れず、それに勝る正しい生き方が必要だと主イエスは言われました(5:20)。 ◎律法は、神が民を救い出した後に示された神と共に生きる道です。神の救いの応答として、イスラエルの民は、神との間で契約を結んだのです。しかし宗教指導者たちは細かい規定を作り、守ることを要求し、律法が形骸化 していたのです。(マタイ6:1,5)で主イエスは彼らの偽善を批判されました。5:21以降で主イエスは、表に現れた罪だけでなく、心の内面にある罪を神は見ておられることを言われました。 ◎罪ある私たちに、主イエスによって義を与えて下さるのです。神から離れた私たちを見捨てることなく、主イエスの十字架によって、罪を赦し復活の新しい命に生きる者として下さるのです。聖霊を与えて下さり、私たちの内に共に住んで下さり、内側から変えられるのです。世の基準、他人と比較する、自分の正しさを求める立派な行いではなく、主イエスの生き方が基準となるのです。「あなたがたの天の父をあがめるようになるため」。主が私を救って下さった、その感謝と讃美をもって、主の 愛に応えて行こうではありませんか。 |