阪南キリスト教会 / hannan christ church
2021年3月7日 「あなたはわたしを何者と言うか」《マタイ16章13~28節》 ◎ ペトロの信仰告白はどの福音書においても描かれているもので、「福音書のクライマックス」と言っても良い箇所です。私たちが信仰を告白する、それは決して人間のワザではない。すなわち私たちの思いや判断の結果というよりも神さまがもたらした業そのものであるということに耳を傾けなければなりません。 ◎まずどんな場面・場所で主イエスはペトロに問いか、そして彼はそれに応えてこの告白がなされたのか?フィリポ・カイサリアには王宮があって、異教の偶像が建ち並んでいた。そのような場所でイエスは弟子たちに、信仰について「私をだれと言うか?」。異教の偶像がたくさんある中でどれが本当、本物の神なのか?という問いかけをなされたワケです。それは私たちが置かれた状況にも似ているでしょう。 現在ではお金や組織もいとも容易に偶像となって真の神から目をそらさせてしまうのです。 ◎弟子たちは主イエスの質問の意図を見抜けず、たんに世間の噂話を訊かれていると思ったのでしょう。「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤだ」と応えてそれで良しと思ったかのようです。主イエスはそんな弟子たちに「それでは、あなたがたは(複数形)」と質問の矛先を弟子たちに向けます。さあ、もうお茶を濁して逃げられません。 ◎ペトロは有名な告白、「あなたはメシア、生ける神の子」と威勢良く応えます。もちろんウソはなかったでしょう。 しかしこの後すぐ、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。主客が転倒したのです。 人間はこのような傲慢さをすぐに晒け出しますが、そんなペトロを用いて教会を建て上げようとなさる御方なのです。 2021年3月14日 「喜びといのちに変えられる歩み」《マタイ17章1~13節》 ◎主イエスが十字架と復活を語られたことを、ペトロがいさめ、主イエスはペトロを叱責された。主イエスは弟子たちに自分の十字架を背負って従うこと、ご自身が栄光を受けられることを語られた。これらの出来事から、「六日の後」に起こった出来事です。主イエスは、三人の弟子を連れて、祈るために山に登られた(ルカ9:28)。 ◎主イエスが十字架と復活を通られお受けになる栄光の姿を示されることによって、弟子たちをいのちと救いの道へと導き、励ますためでした。それは来るべき将来に栄光があるのだから、今の苦しみを耐え忍ぶことができるのですというだけでなく、苦しみと死から、喜びといのちに変えられる歩みへと主は導いておられるのです。 ◎主イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れ語り合った。それを見た「ペトロが口をはさんで」仮小屋を三つ建てましょうと言った。「仮小屋(仮庵)」は中近東では、大切な客に敬意を払って建てる習慣があった。ペトロは素晴らしく感動的な場面を見て、思わず言葉がでたのでしょうが、それは自分の思いであって、神の御心に適ったものではありませんでした。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」「聞く」とはただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します。 ◎ペトロの手紙二で、この時に起こった出来事が証しされています。主は、闇の中で、罪の中で、いのちを失う私たちに希望のともし火を灯して下さいます。私たちを復活のいのちへと導いて下さる主イエスの言葉に聞き、 従ってまいりましょう。 2021年3月21日 「仕える者になる」《マタイ20章20~28節》 ◎主イエスはご自身が受ける受難について三度弟子たちに予告されました(16:22、17:22-23、20:17-19)。今日の聖書の箇所は、三回目の受難予告(「十字架」で死なれると、より詳細に語られた)の直後の出来事です。 ◎弟子たちは、イエスの受ける苦難と死について、なお十分な理解を持っていませんでした。ヤコブとヨハネの母親が、主イエスが王座につくとき、王に次ぐ地位を息子たちに与えて欲しいと願いましたが、彼らだけではなく、他の十人の弟子たちも自分たちの名誉と権力に関心を抱いていたのです(24節) ◎私たちの生活の中でも権力争いがあり、上に立ち力を持つ者が偉い者、価値のある事と考えています。しかし、主イエスは、「あなたがたの中で偉く(大きい、素晴らし 、立派な)なりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(27節)と全く反対のことを言われた。 ◎主イエスは弟子たちに、仕えることを求められました。それは主イエスご自身が仕える者として来られたからです。主イエスは人々に仕える僕(しもべ:奴隷)となってこの世に来られました。それは、多くの人々を罪の裁きとしての死から救い出すために、「身代金」(奴隷を自由にするとき、それまでの所有者に対価として支払われたお金)として、人が自分の罪のゆえに払わなければならない代価を、ご自分の命をもって十字架上で支払って下さったのです。主イエスの十字架と復活は、私たちを罪と死の束縛と支配から解放し、自由と救いとを与えてくださる勝利を与えて下さったのです。 2021年3月28日 「「十字架から降りよ」との声に」《マタイ27章32~56節》 ◎主イエスが十字架にかけられるまでの経緯は、どの福音書にも詳しく書かれています。ファリサイ派、律法学者と長老たちが、主イエスがユダヤの王=メシアとして君臨されてはたまらないので、何とか口実を見つけて裁判に訴え断罪しようとしました。ピラトは不承不承、その訴えに屈したかのように、主イエスに死刑判決を出します。 ◎主の十字架刑を巡って幾種類もの人間群像を見て取ることができます。 先ず兵士たちは主イエスをただ侮辱して痛めつけることだけに関心を向けています。 その次に主イエスの十字架の右、左に同じく十字架に付けられた二人の強盗がいます。 彼らも通りすがりの人たちと一緒に主イエスをののしります。「十字架から降りて来い」と。 司長、律法学者、長老たちも同じように「今すぐ十字架から降りるがいい」と同調します。 ◎さてここに登場しない弟子たちのことも忘れてはなりません。 ペトロをはじめとして彼らは逃げ去っていました。 あるいは遠巻きに見守っていた婦人たち(v55)の中に入り交じっていたのかも知れません。 複雑な思いを抱きつつ最後は主イエスを見捨ててしまった自責の念にかられていたことは想像に難くありません。 しかし、私たちなどこにいて、どんな言葉をかけたでしょうか? ◎拷問で傷だらけになって十字架を背負う主イエスの傍らに、十字架を無理矢理に担がされた人物、キレネ人シモンが登場します。彼の姿は私たちの十字架に対する姿勢を教えてくれます。 十字架を強制的にではあるけど担う人間の一人となるか、ただ近くでののしる人間となるか、 遠巻きに見ている人か、あなたはどこに居るでしょうか? |