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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年4月4日  
「恐れながらも、大いに喜び」《マタイ28章1~10節》


◎主イエスが葬られた墓を見に来たのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。他の福音書では、「ヤコブの母マリア」、「サロメ」と「ヨハナ」という他の女性も一緒であったと記されています(マルコ16:1、ルカ24 :10)。このように女性たちが香料を携えてお墓に行ったのです。マタイでは「主の天使」が降り、墓の入り口の石をわきへ転がし、その上に座ったことによって「大きな地震」が起こった。この出来事は神の働きであったということが表されています。
◎天使は女性たちに、イエスが復活されたことを告げ、弟子たちに、「あなたがたより先にガリラヤに行かれ、そこでお目にかかる」と伝えるように命じた。「先に・・・ 行かれ」は先導するという意味です(マタイ2:9)。主イエスは弟子たちを導いて行こうとされているのです。
◎天使の言葉を聞いた女性たちは「恐れながらも大いに喜び」ました(8節)。「喜び」と「恐れ」が同居していた彼女たちが恐れから解放されるのは主イエスに出会った時です。 「おはよう」とは、「喜べ」という意味の一般的な挨拶の言葉です。主イエスは、女性たちの恐れを取り除いて「喜び」を与えて下さいました。
◎私たちが恐れに囚われるとき、心が凍りつき身動きできなくなってしまいます(4節、「死人のようになった」 番兵たち)。主イエスは「恐れ」から解放してくださり「喜び」を満たして下さるのです。そしてさらに重要な出来事へと導かれます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)。目に見えないが永遠にわたしたちと共にいてくださる主イエスとの出会いへと。



2021年4月11日  
「世の終わりまでいつも共に」《マタイ28章11~20節》

◎復活という希有で壮大な出来事は多くの人たちをある種の混乱に陥れました。二人のマリアは「恐れながらも大喜びで」(v.8)弟子たちに伝えるために走りました。伝道とは何よりもまず「伝える」ことです。 それがなければ何も始まりません。 弟子たちは散り散りになっていて、ガリラヤに集められなければ教会は出発できなかったのです。
◎主イエスの敵対者たちはどうしたか? 彼らは主イエスのご遺体がないことを何とか取り繕おうとします。 ごまかし、詐欺、口裏合わせで乗り切ろうとしたのです。 祭司長たち・長老たちは番兵たちの口封じのために買収という手段に訴えました。 しかしその結末は「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっていた」とあるように、逆に人口に膾炙してしまって彼らの評判を貶めました。
◎弟子たちはどうだったか? 彼らはエルサレムの出来事に失意落胆して、それに背を向けて故郷のガリラヤに戻るしか方法が無かったでしょう。 十字架の死は悲しみで終結したのではなく、復活という喜びに変わったのです。ここに聖書の成立の根拠があり、伝道の出発点があります。 主は疑心暗鬼の弟子たちに、自ら近寄られました。 エマオの弟子たちにも自ら寄り添われたのです。 そしてあの有名な宣教大命令を与え、弟子たちの生きる目標とされたのです。
◎全知全能の神の子イエスがこれからも中心になって大活躍されたら良さそうなものなのに、そうはなさらずに欠けと恐れに満ちた弟子たち、即ち私たちに対して伝道の使命を与えられるのです。 そこには「私はいつもあなたがたと共に(インマヌエル)いる」との約束の言葉を伴っています。


2021年4月18日  
「しるしを欲しがる信仰」《マタイ12章38~42節》
◎何人かの律法学者とファリサイ派の人々が主イエスに「しるしを見せてください」と言った。主イエスが神から遣わされた神の子、救い主であるという「しるし」(証拠、奇跡)を求めたのです。 ◎それは、単に主イエスが本当にメシアかどうなのか疑ていた、確かめようとしたのではなく、「よこしまで神に背いた時代の者たち」と彼らは神の言葉に耳を傾けず、背を向け、自分たち求めに応え、自分の願う利益を与えてくれる神を求めている、彼らの罪の姿を示されたのです。12:22以下での彼らと主イエスの論争では、主イエスが旧約聖書で預言されていた奇跡をなされたにも関わらず、主イエスの言葉に耳を傾けようとしない彼らの姿が記されています。
◎三日三晩大魚の腹の中にいたヨナは、主イエスが十字架で死んで葬られ、三日目に復活することを示す「しるし」でした。主イエスが私たちの罪を背負って十字架で死なれ、私たちは罪の赦しの恵みをいただくのです。そして新しい命に復活し、私たちは神様との関係が回復されるのです。主イエスはヨナにまさり、ソロモンにまさる、まことの救い主であることを示されました。
◎ソロモンの知恵を聞くために地の果てからやって来た南の国の女王は、ソロモンに知恵を与えて下さった神の言葉を求めたのです(列王記上10章)。新しい命に生かされている感謝をもって、時代に取り込まれることのないように、御言葉を求め歩みましょう。自分の期待や願いに関わらず、私たちにとって本当に必要不可欠な救いを私たちに与えて下さるのです。



2021年4月25日  
「わたしは復活であり、命である」《ヨハネ11章17~27節》
◎ヨハネ11章は「ラザロの復活」という長い奇跡物語が描かれており、ラザロの姉妹であるマルタとマリアのラザロの死に対する反応を通して私たちは信仰について学ばされます。 マルタとマリアについてはルカ福音書10章で熱心に給仕するマルタとひたすら御言葉に耳を傾けるマリアという二人の対照的な性格が言及されています。
◎主イエスはラザロが既に亡くなっておられることをご存じであったことが分かります(14節)。 しかし「葬られ既に四日もたっていた」(17節)にも関わらず、なぜ到着を遅らされたのでしょうか。 しかもわずか15スタディオン(約3km) しか離れていない距離だったにも関わらずです。主ははっきりと「あなたがたが信じるようになるためである」(15節)との目的をもって行動されておられたのです。
◎主が到着された時、この対照的な性格のマルタとマリアは不思議に同じ言葉で反応します。 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と。ここには変えられない現実を訴える人間のごく自然な心理とともに、主への訴えがあります。 私たちはしばしば「もし・・・ならば」という考え方をします。 それが日常生活の次元で現れて来るとしたら、無力な信仰に過ぎません。
◎マルタは続けて「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 と自らの信仰を告白します。 私たちはこの「今でも」 を自らの信仰として告白できるでしょうか。 言葉だけの復活信仰ではなく主の復活に与ることができるという信仰です。 教会の聖徒の墓には「私は復活であり、命である」と刻印されています。 「死んでも生きる」信仰があるからこそ言えるのです。