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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年8月1日  
「サウロ、弟子団に加わる」《使途言行録9章26~31節》

◎使徒言行録9章はサウロの劇的回心が描かれた章であり、福音伝道の大きな転換点となった章でもあります。サウロの回心はユダヤ人のみならずクリスチャンたちをも困惑させるばかりでなく、混乱にも陥れました。 裏切られたと思ったユダヤ人たちはサウロを殺そうと企みますが、 弟子団は自分たちを捕まえようと奔走していたサウロを受け容れることなど到底できずに困惑するばかりです。 ◎「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」との主イエスの言葉は言うは易く行うは難しです。 サウロはエルサレムの弟子団の仲間になろうとしますが、最初は誰もサウロの回心を真摯に受け止めようとしません。 何か下心が?と勘ぐる者が居ても不思議ではありません。信用を落とすのは簡単ですが、それを回復するのは並大抵の努力ではできません。ましてや自分の努力だけでは不可能です。
◎そこに執り成す者としてバルナバ(「慰めの子」の意)が現れます。 社会にはこのようにバルナバ的な役割をする人物が必要なのです。 彼は忍耐強くサウロを弟子団に加えようと説得に努めます。 あきらめずに根気よく執り成してくれる人の存在はいかに心強いことでしょうか。 和解を作り出す人はいつの時代にも必要なのです。また、サウロ自身もガラテヤ書に拠ると「アラビアに退いて・・・・3年後、・・・エルサレムに上り」(1:18)とあるように自らと向き合い、長い時間、深い内省の時を過ごしたのです。
◎しかしながらサウロの命を付け狙う一派が存在し、そのことの故に弟子団はサウロをタルソスへ送り出します。 ここから異邦人の間に福音が大きな拡がりを見せて行くのです。 それは聖霊の慰めを通しての拡がりでした。



2021年8月8日  
「試練を与えられる神」《使途言行録20章17~35節》

◎本日の聖書箇所は、パウロの第三回目の宣教旅行中の出来事です。パウロはエルサレムの教会を支援するための献金を集め、届けようと船出しようとしたが、パウロを殺そうとする陰謀があったので、陸路でフィリピに移動し、そこから船出した。ミレトス(エフェソから約50㌔)に着き、パウロは旅を急いでいたので、使いをやってエフェソ教会の長老たちを呼び寄せて、最後の勧めをしました。
◎パウロはエフェソにおいて、謙遜の限りをつくし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀による試練にあいながら2~3年間伝道しました。信仰の益になることは、公衆の面前でも方々の家の集会でも伝え、教えました。神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししました。
◎パウロは、「投獄と苦難」とが自分を待ち受けていることを、どこの町でも預言者たちを通して告げられ、はっきり知りながらも、人間の判断によらず、聖霊に促されてエルサレムに向かう決意を伝えます。
◎パウロは教会を「神の教会」と言っています。教会は神に属するもの、神が所有しているものなのです。教会は、多くの欠けたところがあるとしても、イエス・キリストの十字架の血によって、あがない出された共同体です。この世にあって、内外の激しい戦いを受け、神の国のために苦しむ苦難の共同体です(テサロニケ二、1・5)。 この教会は、「神とその恵みの言葉とに」委ねられ、「聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。



2021年8月15日  
「主キリストに仕えるように」《コロサイ3章18~4章1節》

◎本日の箇所は、他のパウロ書簡(エフェソ書、ロマ書)にも現れる「家族の教え」として知られるものです。この箇所だけを採り上げると何か封建的な道徳訓に聞こえてしまいます。しかし、パウロ書簡は主に前半が罪深き人間がいかにしたら救われるかとの大きな全体像から見なければなりません。 J.ウェスレーは生涯のテーマとして、「神の賜物としての恵み・信仰による救い」(エフェソ2:8)を強調し続けました。 その教理を根拠とした「教え」であることを忘れてはなりません。
◎「教え」はもちろん「実践」を伴わねばなりません。 それを「キリストに結ばれた生活」としてパウロは人々に勧告しているのが2章6節以下と見なされます。 そこには古い生活(パウロ自身が縛られていた律法的生き方)を捨て「造り主の姿に倣う新しい人」(3:10)を着る生き方があります。 12節以下には幾つもの徳目(愛・赦し等)が描かれ、それは礼拝へと導かれる(3:16)教会共同体の生き方でした。 ◎その生き方は各自の家庭へともたらされなければなりません。 家庭は伝統的には父親が家父長的な権威で治める場として考えられていました(現代も同じでは?)。 上下関係がはっきりしていると社会、特に職場等では安定しているように見られがちです。 家庭もそうでしょう。 それを前提にすると父親への服従が語られる事になります。
◎聖書は神と被造物である人間の上下関係は「愛する御子の支配下に移された」(1:13)と語られますが、人間同士はどこまでも平等な「一つの体」(3:15)であり、相互扶助的です。故に「仕えなさい」、「服従しなさい」 との勧告は私たちが 「主キリストに仕える」(3:24)姿が模範となっているのです。



2021年8月22日  
「忍耐して待ち望む」《ローマ8章18~25節》

◎「現在の苦しみ」とは、今抱えている苦しみのことではなく、私たちが生きている今のこの時は苦しみの時なのだ、と言っているのです。この「現在の苦しみ」に対して、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」がある、とパウロは語っています。「現される」という言葉は、「隠されていたものが明らかにされる」という意味です。
◎今は隠されている栄光が、将来明らかにされ、私たちに与えられるのです。そのことを信じて生きるのが、主イエス・キリストを信じる信仰者の歩みなのです。それは、苦しみの中で忍耐しつつ待ち望みつつ、苦しみの中でも希望を失わずに生きる歩みです。
◎その「苦しみ」とは、被造物全体が、その本来の目的、神によって造られた物として、造り主である神の栄光を表し、ほめたたえることが出来なくなっていることです。そして人間の罪の故に、被造物全体が虚無に服しているのです。人間が、自分を含めてこの世界を造って下さった神に背き、神なしに、自分の思いによって生きようとする罪に陥ったことによって、人間が楽園を失って苦しむようになっただけでなく、被造物の全てが創造主の栄光を表し、ほめたたえるという本来の目的を達成できなくなり、虚無に服してしまったのです。
◎私たちが、現在の苦しみの中にありながらも、神の子とする霊を受け、主イエスと共に「アッバ、父よ」と祈る者とされ、神の子としての栄光が将来与えられることを信じて、忍耐して救いの完成を待ち望みつつ生きていくことは、私たちにとって恵みであるだけでなく、被造物全体の希望でもあるのです。



2021年8月29日  
「復活の希望」《Ⅰコロサイ15章35~52節》

◎Ⅰコリント15章の主題は、死者の復活、私たち自身が復活する、ということです。イエス・キリストを信じる信仰者たちが、主イエスの再臨の時に、復活して、新しい体、霊の体を与えられるという、信仰における希望があるのです。
◎私たちが復活を信じ、そこに希望を置くことができるのは、神様が、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちに救いの恵みを与えて下さったことを信じる信仰によるのです。そのキリストの復活は、目に見える肉体における復活でした。
◎復活の体は、今の私たちのこの肉体とは違う、霊の体です。霊の体というのは、聖霊によって活かされる体ということです。それは最後のアダムである復活されたキリストの体と同じものだということです。私たちは終わりの日に、復活されたキリストと同じ体を与えられる。
◎世の終わり、キリストの再臨の時に、私たちは復活し、朽ちないもの、神の国を受け継ぐ者へと変えられるのです。私たちは、復活において新しくされ、霊の体、朽ちないものへと変えられ、神の国を受け継ぐことが出来るのです。
◎神は、主イエス・キリストの十字架の贖いと復活によって、わたしたちに勝利を与えて下さったのです。この「勝利」は罪に結びついた死の克服であり、死に結びついた罪の赦しであり、それはキリストの賜った勝利です。 死がすべての終わりではなく、わたしたちは死をおそれず、死におびやかされず、この世を勝利者として生きてゆくことができるのです。