本文へスキップ

日本フリーメソジスト教団阪南キリスト教会のホームページへようこそ

阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年9月5日  
「福音を告げ知らせるためには」《Ⅰコリント1章10~17節》

◎コリントという町は当時のローマ帝国アカイア州の首都で、さまざまな人種の人たちが住む国際都市でした。そこには約60万人もの人々が生活し、様々な哲学の派閥 (流派)が存在し、人々は2年に一度のスポーツ大会に熱狂していました。当然、様々な宗教が入り乱れて、偶像を競い合っていました。当時の某哲学者は「コリント人のように生きる」とは「みだらな生活をする」と同じ意味であると語っているほどで、パウロも批判しています(6章)。
◎コリントの教会は大部分が異邦人、異教徒から成立した教会だったと考えられます。 パウロは紀元50年前後、 第二次伝道旅行の際にこのコリントにやって来、1年半滞在して、同業の天幕職人のユダヤ人夫妻アキラとプリスキラの支えを受け、同労者シルワノやテモテらの協力で建て上げられて(家の)教会です。 当初は身分の高い人、知者、 お金持ちとは無縁の貧しい教会であったと考えられますが、徐々に(!)教会の中に分裂、党派心が忍び込みます。
◎パウロはそのような教会に強い調子で「勧告」します。 警告に等しい言葉です。 何故、分裂があるのか? 「(家の) 教会」ではその家の長の権力が強くなりがちです。 それは 分派を生み出してしまいます。「アポロ派」、「パウロ派」・・・ と。 パウロはこのような人間の心の弱さ、闇について厳しく批判し、ただキリストにのみつく事を勧めるのです。
◎宣教において有効な方法論ということを私たちは考えます。当然のことです。 しかし先ず、外側の人々が教会を見た時に、そこに分裂や対立、いがみ合いがある。 どう思うでしょうか? そのような群れに敢えて属そうと思うでしょうか。 キリストの十字架のみが救いであるべきです。



2021年9月12日  
「主の憐れみを受けた者として」《ヤコブ2章8~13節》

◎ヤコブの手紙では「行いのない信仰は人を救うことができない」(2:14)と「行い」が強調されています。これは、パウロが語る「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)との教えに反対しているのではなく、救われた者の生活を問題にしているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。
◎「人を分け隔て」することは、えこひいきをするという意味でもあります。神は「人を偏り見」ないお方(申命記10:17)なのであるから、キリスト者もまた他者に対してそうであらねばなりません。隣人を愛することは、主イエスも強調されました(マルコ12:28-31)。
◎「憐れみ」とはキリストの十字架の贖いにおいて示された、罪人に対する憐れみによるもので、「自由をもたらす律法」にはこれが含まれているのです。それゆえ「人に憐れみをかけない者」とは、人間の自然的な同情とか愛情ではなく、キリストから与えられた憐れみを感謝をもって受けとめつつ、これを他者に分け与えない者を指すのです。
◎神の憐れみを受けた者として、人を分け隔てるのではなく、誰に対しても、差別することなく、偏見を抱くことなく公平に接しなければなりません。主イエスは、ご 自身が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを願っておられます(ヨハネ13:34)。



2021年9月19日  
「神への供えもの、光の子として」《エフェソ5章1~10節》

◎繰り返すようですが「エフェソ書」は前半(1~3章)の教え(教理)の部分と後半(4~6章)の実践部分とがはっきりとしています。 後半部分では、主の囚人(3:1,4:1)であるパウロがキリスト者として歩むべき道を具体的に教会員にアドバイスします。 それは律法に基づいている側面もありますが、律法的な古い生き方を捨て(4:17~)、キリストにある全く新しい生き方を命じた部分(4:25~)からの継続で、その後半部分が今日の箇所(5:1~5)と言えます。
◎「神に愛されている子どもです」と明言されています。 これは力強い宣言です。 ここで言う「子ども」という語は神の創造のワザの下にあるということともに、神の性格を受け継いでいるということでもあります。 人間のDNAがどれほど親から受け継がれているのかは親の生き方を見ることで知られます。神さまのDNAは本質的私たちが「神に倣う者」として明らかにされます。
◎それは神さまの本質としての「愛」が何よりも中心にあります。 その愛とは「キリストがわたしたちを愛して・・・・ いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(2節)とあるように十字架に極まっています。 ですから私たちも「愛によって歩」まねばならないのです。 それは「聖なる者」としての生き方で、何よりも「あなたがたの間では」とあるように教会内で確立されねばなりません。
◎3節以下で非常に具体的、かつ実際的な忠告が続きますが、これらは性的な不道徳への言及だと考えられています。 言葉の使い方は生き方を表します。 感謝の言葉を中心にする生き方こそが、「聖なる者」としての生き方であり 「光の子」としての闇を駆逐する生き方となるのです。



2021年9月26日  
「神の教えに従う生活」《Ⅱテサロニケ3章6~13節》

◎コリントの信徒への手紙二は、迫害と苦難に直面しながらキリストの再臨を不安と緊張のうちに待っている教会に対して、無用な混乱を引き起こすことなく落ち着いて日常生活の仕事を続けるようにと勧めている書簡です。誤った教えを聞いて動揺することがないように、彼らが信仰に堅く立つようにと励ましたのです。
◎もう既に主は再臨したのだから、仕事していても意味がないと、仕事ができるのに、怠けて何もしない者たちがいたのです。「怠惰」とは、無秩序という意味で、神の言葉に従わず、適切な秩序(規律)が欠如している様子です。単に怠けているということではなく、使徒パウロの歩みにならわず、それに従わず、聖書を救いと生活の規範とせず、自分本位に歩んでいることです。
◎こうした事態に陥らないために、パウロは3:5で「主が・・・深く悟らせてくださるように」と祈っています。「深く悟らせる」とは、「まっすぐにする」という意味です。模範や規範にならうために、不必要な逸脱をしない、「道を開く」(1テサロニケ3:11)ということを意味します。現状維持、伝統や前例にならうのではなく、御言葉、神の言葉に従うのです。
◎「そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」と、一部の怠惰な者のために迷惑を被っている真面目で勤勉な者たちに、怠惰の者たちがどうあろうとも、あなたがたは、信仰の働きと愛の労苦(テサロニケ一1:3)を続けるように勧めるのです。「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(2:15)。