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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2021年10月3日  
「信仰によって生きる人々」《ヘブライ人への手紙11章17~31節》

◎「信仰の章」として知られるヘブライ書11章はその冒頭で信仰について「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と定義します。 そしてそれを証明するために、旧約聖書に出て来るさまざまな人物の名前を列挙して、彼らの生涯を信仰者として生きた歩みとして簡潔に述べるのです。「信仰がなければ神に喜ばれることはできません」(6 節)とは、私たちの信仰の姿勢が人の目を気にするものではなく、どこまでも神さまとの関係において語られるべきであり、それ故に「神に近づ」き「神はご自分を求める者たちに報いて下さる方であることを信じていなければならない」(同)のです。
◎本日の箇所ではアブラハムの信仰を賜物としての子イサクを献げることが、復活との関連で語られます。 それは ヘブライ書著者の信仰理解でもありますが、私たちも神さまの見えない計画・御心を確信することで「死から命へ」の復活信仰を確認する者でありたいのです。
◎モーセにも多くの言葉が費やされます。 モーセは出エジプトを通してイスラエルの救済者、英雄として当然と言えばそうなのですが、アブラハムと同様に「キリストのゆえに」(26 節)という視点で語られます。モーセの苦しみはキリストの十字架の苦しみとつながっているからです。
◎両者は言葉が多い人ではありませんでした。しかし、人々を信仰に導き、信仰者の祖先となった。人々に信仰による生き方を示した。伝道とは信仰によって生きることです。 キリストの十字架の贖いの恵みを知っている私たち新約の民は「信仰によって」、神のご計画を信じ、その報いを待ち望んでいます。 これこそ信仰の祝福なのです。



2021年10月10日  
「神の憐れみによる支配」《ローマ人への手紙13章1~10節》

◎本日の箇所は、12章9節以下の偽りのない愛に生きることへの勧めから続いています。その愛は、教会の兄弟姉妹の間だけでなく、敵対する相手(12:14,17,19)にも向けられる愛なのです。さらに13:8「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」へと続いています。
◎この偽りのない愛が、個人的な関係においてのみでなく、「上に立つ権威」つまり国家権力の下で生きることにおいても求められているのです。国家の権力やその秩序を神によって立てられたものとして認め、受け入れ、それに従うこと勧められています。社会において権力を持っている者たちを、私たちが愛し、その人々の隣人となって生きる道なのです。
◎上に立つ権威に従うとは、国家の秩序、権力を認め、その下で責任ある生き方をしていくことです。しかしそれは、どんなことでも絶対に服従しなければならないということではなく、神に従うことをやめて国家権力に従うということでもありません。上に立つ権威の上に、神の権威、ご支配があることを見つめ、それに従うがゆえに、国家権力に従うのであり、権力に無批判に迎合することではありません。
◎私たちが本当に恐るべきお方は、主イエスの父なる神です。神が、その独り子イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの恵みをもって私たちを支配し、私たちの、この世の全てのことをみ手の内に置いて下さっているがゆえに、私たちはいろいろな苦しみや悲しみを恐れることなく、愛の道を歩むことが出来るのです。



2021年10月17日  
「天国への備え」《マタイ25章1~13節》

◎本日の聖書箇所は24~25章全体が世の終わりにおける神の審判(裁き)に言及されていることが理解の前提となります。あなたはどのように生きてきたかが神さまの前で問われるのです。その問いは神さまから私に与えられた信仰の賜物をどのように用いたか?と言い換えられます。それを愛のワザのために用いていますか?私たちは「二つの組分け」に例えられています。
◎前段の「忠実な僕と悪い僕」(24章45節~)も今日の物語と似ています。悪い僕は「主人は遅れる」(18節)と都合の良い解釈をして好き放題に振る舞いますが、その主人 (主イエス)はそのような僕を厳しく罰します。
◎信仰者は二つの世界「天の御国」と「この世の国」に生きる者たちです。この世では信仰という灯火をかかげて生きなければなりません。この世とはどんな世か? それは「不法が蔓延るので、多くの人の愛が冷える」(24:12) そんな時代です。それは不安を抱かせ絶望に至るように見える時代です。でも、灯火を掲げて生きるクリスチャンはそこに希望を見いだし作り出すことができるのです
◎ユダヤの結婚式は夜に始まります。 花婿の到着(主イエスの例え)を待つ間、灯火の油を絶やしてしまう愚かな乙女たちがいます。 賢い乙女たちは備えの油を持っていて暗闇でも十分に対応できます。 愚かな人たちは「分けてくれ」と叫びますが、信仰の賜物ですから(25:14以下、タラントンの例え)、分け与えることはできません。 この世の闇と戦うために灯火を掲げ続ける。 しかし、その油の備えを欠かしたままでは戦えない。 主が備えておられる豊かな賜物をもって愛のワザを行い続けましょう。



2021年10月24日  
「命の息」《創世記2章4b~9節、15~25節》


◎アダムという名前は、「土」(アダマ)から来ています。人は土の塵から造られたからです。人間の弱さ、はかなさ、脆さといったことが表されているのです。Ⅱコリント4章では、私たち人間は「土の器」だということが語られています。人間は土の塵に過ぎない、本来立派なもの、価値のあるものではない。しかし、神が命の息を吹き入れて下さり、生きるものとなったのです。そして神は、 人を、エデンの園に住まわせて下さいました。人間の命、 豊かな土地、生活全般にわたり、主なる神が恵みによって与えて下さったものなのです。
◎神は人間に、エデンの園において「人がそこを耕し、守るようにされた」。神は人間に務めを、使命を与えられたのです。神に造られ、命の息を与えられて生かされている人間は、神の下で、神に仕えて生きる使命が与えられていました。
◎エデンの園における生活は、大いなる自由を与えられた生活でした。神の下で、神に従い、仕えて生きる。そして、「善悪の知識の木」の実だけは、食べてはいけないという、越えてはならない限界が設けられていました。
◎人は、神に背き、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまうことによって、自由を失い、罪の奴 隷となり、神が備えて下さった園から追放され、苦しみながら生きる者となってしまったのです。しかし、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪にまみれた土の器に、主イエスの復活の命の息が吹き込まれ、きよめられて、新しい命に生きるものとされるのです。



2021年10月31日  
「神はなおも守られる」《創世記4章1~16節》

◎アダムとエバは、神への背きの罪のために、人は命の源である神との親しい交わりを失い、死すべきものとなり、エデンの園から追放されます。アダムとエバの間に、カインとアベルが与えられた。兄のカインは土を耕す農夫となり、弟のアベルは羊を飼う者となりました。
◎カインは土の実りを、アベルは羊の群れの中から肥えた羊の初子を持ってきて、神に献げた。ところが、神はカインの献げ物ではなく、アベルとアベルの献げ物に「目を留められた」。その理由は何も書かれていません。カインは激しく怒って、神から顔をそむけ、顔を伏せた。神はカインに罪が待ち伏せていると警告された。
◎「お前はそれを支配せねばならない」(7節)の「それ」は、弟の「アベル」を指しているとも考えられます。兄として弟を守り、慈しみ、正しい関係であるように治めるために、罪ではなく、主に目を向けなければなりませんでした。しかしカインは、怒りを抑えることが出来ず、アベルを殺してしまった。
◎神は、カインをないがしろにされていたのではありません。カインが犯した罪の重さに気付き、今後出会う人々に殺されるでしょうと言った時、神はカインが撃たれないように、一つのしるしを付けられた(15節)。神はカインを見捨てたのではなく、なおも守られたのです。
◎不条理な現実のただ中にある時、私たちは神の御旨がどこにあるのかと、悩み悲しみ、怒りも生じます。そのような中であっても神の愛は共にあるのです。隠されて見えないときにも、主に信頼し、主に祈り、御言葉に聞き続け、主の愛を求めてまいりましょう。