阪南キリスト教会 / hannan christ church
2022年2月6日 「神の国のたとえ」《マルコ4章21~34節》 ◎主は12弟子をお選びになった(3:13)あと、その弟子たちとともに宣教のワザを展開されます。弟子たちの無理解(4:13)を前に、忍耐強く神の国を宣べ伝えるためには、 たとえを用いるのが最善だったのです。 しかし、たとえは誤解を招く恐れもありました。 聞く人たちの中には、主の教えに反感を抱く人たちもたくさん居たと思われます。 ◎有名な種まきのたとえのあとに、良く似た「種」を主題としたたとえが続けて語られます。 その前に「灯」と「秤」のたとえです。 「人々の聞く力に応じて」(33節)語られたとはいえ、正しく受け止められたかどうかは別問題でした。「灯」とは神の国のことでしょう。 それは「明るみに出」す働きが伝道です。 その努力は「秤」で計られます。 その報いは信仰次第ですが、次の「成長する種」で説明されます。 ◎この箇所では「種」は私たちの成育の努力とはあたかも無関係に成長して行くようです。 それだと、私たちの宣教のワザは無意味なのでしょうか? 二千年前の主イエスの誕生と十字架は弟子たちの伝道なしには前進しなかったことは事実でしょう。 しかし、そのような人間の努力に焦点を当てるのではなく、福音そのものの力が大きいのです。 私たちが惜しみなく恵みを分かち合おうとする時、ますます恵みが増し加えられることと似ています。 与えない人は恵まれないどころか、信仰すらも取り去られます。 ◎「からし種」は目に見えぬほど小さいですが、「葉陰」を提供して「巣を作る」ほど大きくなります。 「巣」は家庭、あるいは教会・社会を指すとみて良いでしょう。 神の国はわたしたちの宣教の努力(無意味ではありません!)を超えて、 恵みを分かち合う人々の間で自然に拡大して行くのです。 2022年2月13日 「御言葉を聞いて受け入れる」《マルコ4章1~9節》 ◎主イエスのたとえ話は、分かりやすく説明するために語られているわけではありません。11 節で、主イエスはたとえで話される理由として、内の人(弟子たち)には神の国の秘密(奥義)が打ち明けられているが、外の人々には、「たとえ」(謎)で示される、と言われています。 ◎「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」、主イエスは言われました。ご自身が語られることを、どういう意味があるか、考えながらよく聞きなさい、ということであり、聞いた言葉を何度も思い巡らしながら、心の中で聞き続けるということです。 ◎当時農業において、種を蒔いて得られる収穫の量は、十倍の実りでも十分でしたので、三十倍、六十倍、百倍の収穫というのは、驚くべき、奇跡的なことでした。主イエスは、13節以下でこのたとえの説明をして下さいました。この種とは、神の言葉であって、それは常識を越えた、驚くべき実りを生むのです。私たちが自分の力でどんなに努力しても実らせることのできないような素晴しい実りが、神の言葉によってもたらされるのです。 ◎種が蒔かれても芽を出さなかったり、育たなかったり、実を結ばないということは、私たちにも思い当る現実です。自分がどの土地だ、他の人がどの土地だと考えるのではありません。このたとえ話の主人公は「種を蒔く人」です。当時のパレスチナ地方では、まず種を蒔き、その後にその土地を整えました。私たちの心に蒔かれた神の言葉が育っていくように、 私たちは心を主に明け渡し、主が耕し続け下さることによって、私たちは豊かに実を結ぶ者とされるのです。 2022年2月20日 「信仰が許す罪とは」《マルコ4章21~34節》 ◎この直前の癒やしの記事(1:40~45)については前回(1/30)触れました。 宗教的に汚れたとされ、社会的に疎外されていた「重い皮膚病」の人物を「深く憐れんで」、主自らが手を触れて癒やされたばかりでなく、社会に復帰させるために祭司の所に行かせて証明するように求めました。 ◎それに続く本日の記事は「中風の人」の癒やしですが、 本人よりもその人を運んで来た四人の男たちの行動と信仰の方に焦点が移ります。 彼らは大勢の群衆に阻まれたために、「屋根を剥がして穴を開け、病人の寝ている床をつり降ろした」というのです。 この滑稽ですらある、目の前の障害を果敢に乗り越えようとする行動の方に主イエスは目を留められ「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。 ◎この記事は一見、奇異に思えます。 主イエスの赦しの宣言の後に、癒やしのワザ「起き上がり、床を担いで家に帰る」 が続くからです。 これは信仰者たちの共同体(教会)の働きの大切さに言及されていると考えられます。 私たちの信仰生活は独りで成立するものではなく、共同体の祈りと熱心な支え=愛ある行動によって成立するという事です。ここに私たちの学ぶべき信仰者の智恵と実践があります。 ◎しかし、このような神への献身的行動と主イエスのお言葉に反発する古い共同体(律法的ユダヤ社会)があります。 彼らは主イエスの「罪の赦しの宣言」は神への冒涜であると反発します。 その事を見抜かれていた主イエスは、 その中風の人に自ら「起き上がり、床を担いで家に帰る」ことを命じられるのです。 律法学者は「罪を赦す」権威は神のみに属すると反発しますが、その権威こそ「人の子」である自分にあるのだと力強く語り古い共同体と戦われるのです。 2022年2月27日 「いったいこの方は」《マルコ4章35~41節》 ◎主イエスと弟子たちは、岸辺で主イエスの話を聞いていた群衆を後に残し、向こう岸へと舟で漕ぎ出した。ここに弟子たちと群衆の違いがあります。弟子たちは、主イエスのみ言葉を聞き、そのみ言葉に従って、主イエスと共に、新たな旅へと出発したのです。 ◎漕ぎ出した弟子たちの舟を突風が襲い、大波に翻弄され、水浸しになり、舟が沈みそうになった。信仰は、私たちに平安を与えるという面もありますが、人生の苦しみや悲しみの嵐によって、危機をももたらすのです。 ◎弟子たちは嵐の中で眠っておられた主イエスの姿に動揺し、狼狽え「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。弟子たちは、主イエスが何もせず、気付いてもくれていないと感じ、弟子として従った歩み、信仰そのものが揺り動かされたのでした。 ◎主イエスは「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」嵐はおさまった。主イエスは、父なる神から遣わされた神の独り子として、天地の全てをお造りになった神の権威と力を持っておられることを示されたのです。 ◎弟子たちは「いったいこの方はどなたなのだろう」と驚き戸惑います。弟子たちは、主イエスのことが分かっているつもりで弟子となり、従って舟に乗っていました。しかし、期待していたこととは異なり、恐れを抱いたのでした。その歩みは、十字架と復活へと進む、神の国を実現される救い主としての歩みなのです。主イエスと共に歩む旅は、恐れと「いったいこの方は」という驚きと共に、主イエスとの親しい交わりが深められるのです。嵐が襲ってくる旅ですが、沈むことのない旅なのです。 |