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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2022年4月3日  
「私の飲む杯を飲むか」《マルコ10章32~45節》

◎「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」は最初の4人の弟子です。少し穿った見方をすれば、最初のと言ってもペテロとアンデレの次、2番手です。 その事は彼らにとってある種の劣等感を抱かせていたのではと憶測させます。 それは歪な競争心を生み出します。 一番弟子を何とか出し抜こうとする彼らの思いが「一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」との申し出につながります。マタイ福音書では母親が願い出たことになっており興味深いです。
◎人間はこのように他者との比較において優位に立ちたいとの愚かな虚栄心に満ちた存在です。 先週の主の変容の場面(9:2以下)でもペトロが「仮小屋を建てましょう」と訳の分からない事を口走ったのもそれと似ています。他者より優位に立ちたい。 この誘惑は絶え間なく私たちに襲ってきます。 そしてそれに抗うことの何と困難なことか。
◎主イエスはきっぱりと仰ります。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と。 それは誤った願いなのである。 肉の欲に基づいた願いであると。 それでは、正しい願いとは何であるのか。 信仰者も自分の信仰の優劣を論じていないだろうか。 忘れてはならないのは、主イエスの「右に、左に」という時、主が十字架に架けられた時に、その苦難を「右に、左に」共に居て苦しむ覚悟があるのかという問いです。 主の杯とは十字架を暗示しています。
◎主イエスは正しい願いとは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために・・・自分の命を献げるために」と人びとに仕えて、仕え尽くす生活であることを教えられます。 それは自らがその命をすらも惜しまずに、ただひたすらに神と人とに献げ尽くされた人生に現れているのです。



2022年4月10日  
「苦しみの中で祈られる主」《マルコ14章32~42節》

◎主イエスと弟子たちが食事(最後の晩餐)を終え、夜更けにオリーブ山のゲツセマネへと向かった。本日の聖書箇所の後で、主イエスを裏切ったユダの手引きにより、主イエスは逮捕され、夜が明けてから裁判が行われ、その日の内に主イエスは十字架につけられて殺されるのです。その十字架を目前にして主イエスは「死ぬばかりに悲しい」中で、祈られました。
◎「悲しい」はギリシャ語訳旧約聖書における詩編42,43篇の「うなだれる」と同じ語です。主イエスは、神を求めるけれども神は答えて下さらない、という魂の渇きの中で苦しんでおられるのです。それは私たちの罪のために神の怒りを引き受けて下さり、神に見捨てられる苦しみなのです。 ◎主イエスは神に「アッバ、父よ」と呼びかけて祈られました。「アッバ」(子が父親を呼ぶ言葉)には、親密さと従順(ヘブライ5:8)が表されています。死ぬほどの悲しみの中でなお父なる神に深く信頼し、その御心こそが成るようにと祈られたのです。主イエスの祈りには、「何でもおできになる」神に願いを申し出るだけではなく、受け入れなければならない神の意志があり、ご自分の心 が一致するように祈られたのです。
◎弟子たちは心は燃えても肉体が弱く、疲れて眠ってしまいました。主イエスは彼らのため、私たちのために祈り続けて下さったのです。私たちは、祈りを失い、苦しみに打ち負かされてしまう者ですが、なお神の下に留まり、主イエスの祈りに導かれて歩むのです。苦しみの時が過ぎ去るのではなく、救いの時が来るのです。



2022年4月17日  
「ここにはおられない。復活された!」《マルコ16章1~8節》

◎世界ではウクライナをはじめ、悲惨な戦禍が絶えることなく続き、人々の生命が残酷にも奪われて行く現実があります。そのような中で今、改めて復活祭を祝う意義を深く考えさせられます。 Happy Easter!と真に言えるかと。
◎ユダヤ教の埋葬の習慣では、遺体を亜麻布で巻いた後、横穴式に掘られた墓の中の小部屋に安置されました。そして大きな石でその穴を塞ぎます。(私もイスラエルを訪問時、主イエスの墓とされている「園の墓」で確認しました。)
◎墓を訪ねた婦人たちの懸念は「誰がその大きな石を動かしてくれるか?」でした。そんな大切なことを何の段取りもせずに、墓に出かけて行ったという事はたいへん無思慮な行いであると思わざるをえません。 しかし、そこで婦人たちは大きな石の懸念をはるかに越えた、それどころかもぬけの空になってしまっている墓を発見するのです。
◎驚き呆然とした婦人たちに対して、そこに居た若者は 「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げます。 主の復活の出来事は、私たちが全く別の所に心を向けてしまって、真の場所に目を注いでいない事に気づかされます。 居るはずのない場所を探している。 主の復活とはそれほど私たちの理性を超えた次元にあるという事! 婦人たちの「主を葬る」という動機を根本的にひっくり返して、「主に出会う」という新たな目標を与えてくれる出来事だったのです。 そこに無いものを求めるのではなく、命を与えるお方に出会う。 その主に目を転じて新たな歩みを始めること、これこそが信仰です。 婦人たちは「正気を失った」とあります。 しかし、茫然自失とした人間の前に主イエスはご自身から私たちに歩み寄って来てくださるのです。



2022年4月24日  
「見ないのに信じる幸い」《ヨハネ20章19~31節》

◎弟子たちはマグダラのマリアから、主イエスの復活を告げられていた。彼らは、神を信じ、信頼することができなくなり、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
◎そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。主イエスは、弟子たちの弱さと不信仰、罪を乗り越えて、神の祝福を与えて下さったのです。神が彼らの全ての罪を赦し、祝福を与え、新しく生かして下さるのです。主イエスが息を吹きかけて、聖霊を与えて下さることによって、新しく生かされて行くのです。
◎ところがその場に、トマスはいませんでした。彼は、主イエスの復活を聞いても自分の目で見て納得できるまでは信じないというのです。八日の後(次の日曜日)、トマスも他の弟子たちと一緒にいるところに、主イエスが再び現れて下さり、一週間前と同じように「平和があるように」と語られました。主イエスはトマスに納得できるまで確かめても構わない、そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。トマスは自分の思いを受け止めて下さり、自分を見捨てることなく愛して下さる主イエスに出会い、信仰を告白しました。
◎復活された主イエスと出会った弟子たちと同じ幸いが私たちにも与えられているのです。主イエスは、弟子たちの言葉によって主を信じる人々のためにも祈られました(ヨハネ17:20)。分からない状態でも主の言葉に耳を傾け主の御手に委ねるなら、主イエスを見ないで信じる幸いな道を歩むことができるのです。