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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2023年1月8日  
「神に愛され、神の子として生きる」〈ルカ3章15~22節〉

◎洗礼者ヨハネは神の言葉をいただいて、ヨルダン川で罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。民衆はヨハネをメシアではないかと思いましたが、ヨハネは「わたしよりも優れた方」が到来することを予告しました。洗礼者ヨハネの行なっていた洗礼は、ヨルダン川の中に人の全身を沈め、そこから立ち上がることによって、罪の奴隷である自分は死んで、新しく神の子に生まれ変わる「回心」を表すものでした。
◎ヨハネはメシアとは神の裁きをもたらす人、風と火による裁きの中に人々を沈めるために来られるというイメージを持っていました(「聖霊と火」=「風と火」、3:17)。主イエスも裁きを語られていましたが、むしろ罪の赦しと癒しを与えるお方でした。
◎「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉には、ダビデ王家から現れる聖霊を受けた新しい王について語られるイザヤ42:1以降が背景にあります。主イエスが神の子として、主の僕としての使命を歩み始められるのです。そして、主イエスを救い主(メシア)として信じ洗礼を受ける者には、聖霊が与えられ、罪が赦され聖められ、新しい歩みが始まるのです。
◎主イエスの洗礼は、私たちが神に愛された子であると受け取め、聖霊に満たされて神の子としての使命に生きるように導かれるのです。「神の子としての使命」とは特別な働きに限りません。むしろ今生きている歩みの中で、私たちが表してゆくことができることです。ヨハネは徴税人(3:12)や兵士(3:14)に向かい、彼らが仕事を辞めるように求めていません。人と分かち合い、人に対して悪を行わないように、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方が「悔い改めにふさわしい実」となるのです。



2023年1月15日  
「神の言葉を聞こうとして」〈ルカ5章1~11節〉

◎本日の聖書箇所で主イエスの弟子となったものたちは、後に使徒と呼ばれ、全世界へと福音を宣べ伝えました。シモンたちは「すべてを捨ててイエスに従った」立派な特別な信仰を持った人々ではなく、神の言葉を聞き、信頼して歩み出した者たちなのです。
◎シモンは最初から主イエスを全面的に信頼していたわけではありません。夜通し漁をしたが何もとれず意気消沈し疲れていましたが、迷い疑いつつも「しかし、お言葉ですから」主イエスの言葉に従い網を降ろしたのです。シモンは、まだ何も起こってませんが、自分の世界に閉じこもるのではなく、神の言葉を語られる主イエスに目を向け、その神の言葉に信頼したのです。
◎「人間をとる漁師になる」とは、「人間を生かして捕らえるようになる」という意味です。シモンが、神の言葉に聞き従い、神の恵みをいただいて「人を生かして捕えるようになる」とは、自分の力に頼るのではなくて、神の言葉に信頼することによって与えられた恵みを他の人にも分け与え、主イエスの救いにあずかり、生かされるようになるということです。
◎主イエスを救い主と信じ洗礼を受けた者には聖霊が与えられ、聖霊の働きによって私たちはいつどこでも主イエスと共にいることができるのです。主の言葉に信頼し従う道は、私たちが思い描いていた通りのことが起こるわけではありません。私たちの思いもよらなかった驚くことが起こるのです。神の言葉のみに信頼するとき、神の救いの恵みに与ることができると信じて歩むことが「すべてを捨ててイエスに従う」ことなのです。



2023年1月22日  
「今日、神の救いが実現した」〈ルカ4章16~30節〉

◎主イエスは、ナザレの会堂で、イザヤ書に記されている神による解放を告げる言葉を読んだ後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。主イエスは、イザヤの預言は今日実現し、自分こそ、その神が遣わされたメシア(救い主)であると示されたのです。
◎「油を注がれた者」(メシア=キリスト)は、神からの特別な使命とその使命を果たすため、神からの霊が与えられることを目に見える形で表しています。また、この時代にはこのイザヤ書の箇所が「来るべきメシア」についての預言と受け取られていました。このメシアが、人間を縛っているあらゆるものからの解放、何よりその根本である罪からの解放を、恵みとして与えるという福音を告げておられるのです。
◎ナザレの人々は皆イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きましたが、「ヨセフの子」イエスがメシアであることに疑問を抱き、受け入れませんでした。主イエスは彼らが試みるためにしるしを求めることも見抜かれました。そして救いは、ユダヤ人だけに制限されるものではなく、異邦人にも及ぶことをエリヤ、エリシャの例で示されたのです。
◎主イエスの言葉を聞いたナザレの人々は憤慨し、「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそう」とした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られ、十字架への道を歩まれるのです。私たちを罪から解放して神の子としてくださり、永遠の命を与えてくださった救いの恵みをいただいて、今日も主と共に歩んでまいりましょう。



2023年1月29日  
「惑わされないように」〈ルカ21章1~9節〉

◎主イエスは、エルサレム神殿で、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨二枚(一日の賃金の64分の1)を献金しているのをご覧になり、「だれよりもたくさん入れた」と言われました。
◎主イエスは献金の金額を問題にしておられるのではありません。主イエスは、この貧しいやもめが生活の全てにおいて、神様に信頼し、神様と共に生きている中で、神様の守りと支えと導きの中で生きる平安、慰め、喜びをいただいていることを見ておられたのです。神様は生活費のすべてを献げることを求めているのではありません。献金は神様の恵みに対する感謝から、神様への愛、隣人への愛、教会の宣教のために用いられるものであり、神様への栄光のためなのです。
◎主イエスが神殿の崩壊を告げられたので、人々はそれがいつ起こるのか、それが起こる時にはどんな徴があるのか尋ねた。主イエスは、徴が現われても惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けることが出来るようにと語られた。「世の終わり」には、救い主イエス・キリストがもう一度来て下さり、そのご支配が目に見える仕方で確立し、完成して下さるのです。
◎私たちの目に見える現実には、なお罪が満ちており、苦しみや悲しみがあり、苦難があります。私たちを惑わし、脅かし、不安にさせることが起こっても、それが「終わり」ではなく、その先に神様の救いの恵みの完成があるのです。偽りの安心を語る者たちによって惑わされることなく、十字架と復活の主イエスを見つめつつ歩みを進めてまいりましょう。