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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2023年10月1日  
「憐れみは裁きに打ち勝つ」<ヤコブ2章1~13節>

 ◎本日の聖書箇所では、なぜ人を分け隔てしてはならないのか、三つのことが語られています。一つ目は、私たちは、この世の栄光に捕らわれている者から、主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者と変えられているからです。二つ目は、神が貧しい人たちを選んで信仰に富み、神を愛する者に約束された国を受け継ぐ者とされたからです。三つ目は、神の律法に適っていないからです。

 「真理はあなたがたを自由にする」と言われた主イエスは、私たちを自由にしてくださいます。そのために必要なことは、自分を神の裁きの下に置くことです。主にあって自分の罪が指摘されたとしても、私たちは主イエスの十字架と復活の御業によって、罪から自由にされているのです。

 ◎私たちは、神の憐れみを受けた者として、人を分け隔てて、神が愛されている人を傷つけるのではなく、誰に対しても愛の行動をしなければなりません。主イエスは、主が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを願っておられます(ヨハネ13:34)

 私たちは人を見てしまう弱さがありますが、どんな人でも神に愛され、イエス・キリストにあって一つにされた者として、人を分け隔てることなく、誰に対しても神の愛を表わすことができるように、主は私たちを造り変えて下さいます。私たちが他者を裁く心を、神の憐れみによって示された主イエスの十字架と復活によって罪を赦していただき、きよめをいただいて歩み続けてまいりましょう。


2023年10月8日  
「ヘト人ウリヤ」<サムエル記下11章1~17節>



2023年10月15日  
「赦された者」<フィレモンへの手紙8~20節>

◎この手紙は、パウロがコロサイ教会のフィレモンに、オネシモという奴隷のことで赦しを請うために書かれた私信に近いものですコロサイに住んでいたフィレモンは信仰に導かれると自分の家を開放し、家の教会を始めていたのです。姉妹アフィアと戦友アルキポはフィレモンの妻と息子です。彼は奴隷を所有する裕福な人で、彼の働きについてパウロは神に感謝をささげ、大きな喜びと慰めを得ていました。

 オネシモはフィレモン家の奴隷でしたが、おそらく主人の財産を盗んで逃亡し、監禁中であったパウロに出会い、パウロを通してキリスト者になり、福音宣教を助けるようになった。オネシモは、キリストにあって新しく生まれ変わり、「役立つ者」に造り変えられたのです。

 ◎パウロは、フィレモンが奴隷オネシモの主人である前に、キリストにある兄弟であり、協力者であり、基督によって赦され、キリストの愛を持っている人であることを前提に、オネシモを赦してくれるように嘆願しているのです。さらにパウロは、オネシモが負っている負債などを、パウロが肩代わりして支払うことまで引き受けることを申し出ます。パウロはオネシモを深い愛情を持って彼の救いのために尽力しているのです。

 ◎私たちはみな、父なる神の御前に、自分でどんなに頑張っても返済できない罪という大きな負債を抱えていたような者です。しかし私たちを愛する神は、ひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、この負債の身代わりとして十字架にかけることによって、私たちを赦してくださったのです。この赦しをいただき、私たちも互いに赦し合い、神の愛をあらわすものと変えられるのです。



2023年10月22日  
「感謝と祈りによって」<フィリピの信徒への手紙1章3~11節>

◎フィリピの信徒への手紙は、感謝と喜びがあふれている手紙です。フィリピの教会は、パウロたちの宣教によって、ヨーロッパで最初に誕生した教会です(使徒16)。パウロはこのフィリピ教会のために、いつも喜びをもって祈り、またフィリピ教会のことを神に感謝していると語っています。

 それはフィリピの信徒たちが、パウロたちによる宣教の始めからこの手紙を書いているときに至るまで「福音にあずかっている」(5)からです。「福音」とは主イエスの十字架によって罪赦され、滅びから救われるという私たちへの喜びの知らせです。「あずかる」は普通「交わり」と訳される言葉です。ですから、フィリピの信徒たちは、救いの喜びを下さった神との交わりの中で、感謝と祈りの日々を送っていたのです。

 福音にあずかるということは、人間の力や業によるものではありません。祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」、十字架の愛と赦しによらなければ、私たちはいつ信仰を失っても不思議ではないほどに弱い存在なのです。だからパウロは「わたしの神に感謝する」と語っているのです。

 ◎またパウロは「あなたがたのことを思い起こす」「あなたがた一同のために祈る」と、相手の名を呼んで、執り成し祈ります。教会やキリスト者の背後には、祈る人がいるのです。そのような執り成しの祈りによって包まれ、多くの問題や危機の中にあっても、私たちの信仰は支えられ、守られてゆくのです。主イエスの愛による祈りと感謝によって、清い者へと変えられるのです。



2023年10月29日  
「闇の中に輝く光」<ヨハネ1章1~14節>

◎ヨハネ福音書は、他の福音書と異なり、主イエスの歴史舞台を語るのではなく、背後で働かれている神御自身の視点から見た背景を描くことによって、主イエスがどのようなお方であるのかを宣べ伝えます。創世記の天地創造の働きをなされた神の素晴らしい言葉を思い出させる始まり方です。

 ◎ここでの「言」は、イエス・キリストを指しています。創世記1章で「神は言われた」と繰り返されており、神が「言」を語られるだけで創造できる、力あるお方であることが示されています。このイエス御自身が神であられるので、この方を通して神が示されているのです。御子イエスの十字架と復活による贖いの御業は、神の御業なのです。

 ◎救い主イエスの到来は、この世に光が到来することでもありました。光は物事の本当の姿を照らし出します。そして、裁きときよめをもたらしますが、それは救いの希望をとなるのです。たといこの世は暗くても、その暗闇は差し込んでくる光に打ち勝つことはできないのです。

 ◎神の御子イエスが人として生れて来てくださいましたが、真の神でもあるのは、初めから神と共に存在しておられたからです。そして神は、この御子イエスを通して、神の栄光を見て経験することが出来るようにされたのです。

 ◎私たちは闇の中で右往左往するような者ですが、そのような私たちにキリストが光となってくださるということを信じ、この方に信頼して歩んで行くとき、私たちを慰め、励まし、力づけて下さいます。私たちと共にいてくださり、私たちに希望、生きる力が与えられるのです。