阪南キリスト教会 / hannan christ church
2023年3月5日 「主イエスの勝利に支えられて」<ルカ11章14~23節> ◎群衆は主イエスが行われた悪霊追い出しに驚きましたが、中にはその力の源を「悪霊の頭ベルゼベル」の力とみなし、イエスが神から遣わされたメシアかどうか試そうとして、証拠として天からのしるしを要求する者がいました。当時のユダヤ教において、祈祷師が悪霊を追い出すということが行われていました。 ◎主イエスがサタンの頭の力で、悪霊を追い出しているのであれば、それは内輪争いとなり、サタンの支配は崩壊し、自滅してしまいます。主イエスは、モーセのように「神の指(神の霊)」(出エジプト8:15)によって悪霊を追い出しているのだから、神の国、神の支配は、あなたたちのところに来ているのだ、と語られたのです。「神の支配」は、やがて来る終末的な出来事ですが、聖霊の働きによって、すでに始まっているのです。 ◎「強い人」サタンの支配下に捕らえられている私たちを、「もっと強い者」主イエス・キリストがサタンに勝利し私たちを救い出し、ご自分のものとして下さったのです。悪霊が追い出されるだけでなく、主イエス・キリストに私たちの家の主人となっていただき、神が本来造られた聖霊の住まいとしてゆかなければなりません。 ◎私たちは罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さり、私たちを新しい命に生かすために復活して下さった主イエス・キリストと共に歩むのです。この主イエスの勝利に立つとき、私たちの危機意識は、不安や心配ではなく、希望となります。信仰をもって生きるとは、主イエスの勝利に支えられ勝利が約束された中ですが、緊張感を伴う希望をもって歩み続けることなのです。 2023年3月12日 「十字架を背負って従う」<ルカ9章18~27節> ◎ルカ9:7-9には、領主ヘロデが主イエスの色々な噂を聞き、イエスとは何者であるかを知りたいという強い願いを抱いたことが記されています。本日の聖書箇所には、弟子たちが、主イエスが何者であるのかということを、主イエスご自身から問われたことが語られています。 ◎主イエスの問いに弟子たちを代表してペトロが「神からのメシアです」(神ご自身が油を注いで立てた救い主)と、神が私たちの救いのために立てて下さった救い主ご自身であると答えたのです。このペトロの信仰告白の背後には、主イエスご自身のとりなしの祈りがありました。主イエスご自身が私たちを、信仰告白へと導いて下さるのです。 ◎主イエスがご自分こそ神のキリストであることを誰にも話すなと弟子たちに命じられました。主イエスご自身が苦しみを受け、排斥されて殺されるということを伴わずに「神の救い主」ということだけが伝わっていくと、人々が主イエスのことを誤解してしまうからです。この主イエスを救い主と信じる者は、主イエスの後について行き、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従って行くのです。 ◎この主イエスに従って行く中で、私たちは主イエスがどういうお方であるのかを知るのです。私たちを愛し、とりなし祈っていて下さる。私たちの罪を引き受けて十字架にかかってくださり、復活して下さった救い主が私たちと共に歩んで下さっていることを知るのです。主イエスに従う者には、この世においても主と共にあり、キリストと共に復活の命に生きる者とされるのです。 2023年3月19日 「主イエスに聞き従う歩み」 <ルカ9章28~36節> ◎ペトロが信仰告白してから八日ほど経ったとき、主イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子を連れて山に登られた。そしてそこで、栄光に輝く主イエスのお姿が、神の独り子、救い主としての、主イエス本来の栄光がここで示されたのです。 ◎主イエスの姿が変わると共に、モーセとエリヤが同じく栄光に包まれて現れ、主イエスと語り合っているのを三人の弟子たちは見た。旧約聖書(モーセ:律法、エリヤ:預言者)と新約聖書(主イエス)、つまり聖書全体がここに現わされ、主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いについて話していたのです。 ◎ペトロは、栄光に輝く主イエスと、モーセとエリヤが主イエスと共にいる、というこの素晴らしい出来事を、いつまでもここに留めておきたいと願いました。すると雲が現れ、その雲の中から神の声が聞こえ、主イエスとモーセとエリヤの姿は隠されました。神は、主イエスの栄光の姿を、いつでも誰でも見ることができるようなものにすることは出来ないということを示されたのです。 ◎神は「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われ、主イエスこそ、栄光に輝く神の独り子、神が選び、遣わして下さった救い主であると、ペトロが信仰を告白したことを、神ご自身がその通りであると言われたのです。主イエスに聞き従う時に私たちの歩みも、自分を捨て、自分の十字架を背負って従っていくことになります。光り輝く栄光ばかりでなく、弱く罪深い私たちをご自身の十字架の死によって赦し、神の民として新しく生かして下さるまことの救い主と出会う時なのです。 2023年3月26日 「隅の親石」 <ルカ20章9~19節> ◎「ぶどう園と農夫」のたとえ話は、イスラエルの歴史をまとめたものです。ぶどう園の主人(神)はぶどう園(イスラエル)を農夫たち(イスラエルの民)に貸して、長い旅に出た。 主人は収穫を納めさせるために、僕(預言者たち)をぶどう園の農夫たちのところへ送ったが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、収穫を何も持たせずに主人の元へと 追い返した。それが三度繰り返されました。 ◎主人は、より大きな愛を示し、愛する息子(主イエス)を送ります。しかし農夫たちは、跡取りを殺せば相続財産が自分たちのものになると考え、息子をぶどう園の外に放り出して、殺したのです。ぶどう園の主人は戻ってきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるにちがいないと主イエスが語られました。神から独立して、神のようになろうとする、私たち人間の罪の本質があらわされています。 ◎人々は「そんなことがあってはなりません」と言いましたが、このことが起こると聖書(詩編118:22)に預言されていると告げられました。祭司長たちや律法学者たちが拒否し、排除し、殺そうとしている主イエスご自身が、父なる神が建て上げようとしておられる救いの家、新しい神の民の隅の親石となるのです。 ◎農夫たちは私たち自身でもあります。しかし、神は主を死からよみがえらせ、全世界のすべての人の救い主とされました。私たちが受けるべき裁きの身代わりとなって、罪のない神の御子が十字架の上で死んで下さったのです。主イエスは、私たちを罪と死の支配から解放し、勝利を与えてくださったのです。 |