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阪南キリスト教会 / hannan christ church 



                   本日の説教より 

2023年7月2日  
「神は命を与えてくださった」<使途言行録11章1~18節>

 ペトロが、ローマの軍人である異邦人のコルネリウスの家で主イエスの救いを知らせると、異邦人の上にも神の聖霊が降り、ペトロは彼らに洗礼を授けました。この出来事が、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに知れ渡りました。しかしユダヤ人たちはペトロが異邦人のところへ行き、一緒に食事をしたということでペトロを非難した。

 ◎ユダヤ人は自分たちが神の民であることを大切にしていました。そして主イエスが、神のご計画されていたメシアであったと信じ、神の御言葉に従って歩もうといしていたのです。彼らは律法を守ることで神の民としての清さを保つことも大切なこととして受け止めていたのです。神は、地の果てまであらゆる国の人々が、イエス・キリストによって罪を赦されて、神のもとに立ち帰り、新しい命を得ることを望んでおられます。しかしながら、ユダヤ人たちは律法から生じた習慣によって、この事実を受け止めることが出来なかったのです。

 ペトロも、異邦人のところへ行くことは、律法で禁じられていることだと十分承知していました(10:28)しかし、幻を示され、聖霊に導かれてたペトロは、神が清いと言われた者が清いのであり、割礼を受けていない異邦人でも、神は分け隔てをなさられることなく、主イエスを信じる者は誰でも、ただ信仰によって罪の赦しを得、救いの恵みに与る者とされるということを、順序正しく説明しました。

 ◎非難していたユダヤ人たちは、異邦人にも「神は命を与えてくださった」とわかり喜んだ。忍耐と慰めの源である神が、同じ思いを抱かせ、心を合わせて神をほめたたえるようにさせて下さったのです(ローマ15:5-6)。



2023年7月9日 
「慰めの神」<使途言行録20章7~12節>

◎トロアスは、小アジア(トルコの北西)のエーゲ海に面した港町です。この町はパウロたちにとって重要な拠点でした。彼らはここで幻を与えられてヨーロッパ宣教に踏み込んだ場所です(16:8-11)。ここに七日間滞在し、週の初めの日(週の初めの日は日曜日だが、ユダヤ人の一日は日没に始まるので、土曜日の日没直後に集会は始まったと思われる)にパンを裂くために集まったときに事件は起こった。

◎パウロは翌日トロアスを出発するという予定でしたが、夜中までパウロの話は続いていた。そのような中、エウティコという青年が窓に腰をかけてパウロの話を聞いていたが、眠気を催し三階から落ちて死んでしまった。しかし、パウロが降りて彼の上にかがみ込み、抱きかかえると、彼は生き返った。人々は大いに慰められた。

「慰め」という言葉は、「側に呼びかける」という意味の言葉です。主が私たちの側に立ち呼びかけて下さり、語りかけて下さるのです。そして、主イエスの十字架と復活による新しい命を与えて下さることによって、慰めが与えられるのです。私たちの神は、「慰めの神」なのです(Ⅱコリント1:4)

◎神の与えて下さる慰めは、人間の手にはどうしようもないことでも、その中に道を開いていく神の力となるのです。苦難が避けられなくても、苦難の中を突き進んで行く力が与えられるのです。12:1,2「励ます」と「慰める」という言葉は同じ言葉で、この派生語で「慰め主」と訳せる言葉は聖霊の別称でもあります。教会は聖霊による慰めが与えられるところです。復活の主の命に生かされ聖霊とみことばの恵みを通して、慰めと励ましが与えられて行くのです。


2023年7月16日  
「互いの重荷を担い合う」<ガラテヤ6章1~10節>

◎聖霊に導きかれる生き方として、罪に陥った人がいたら、あなたがたはその人を柔和な心で正しなさい、と助け合うことによって、キリストの律法を全うするように勧められています。キリストの律法とは、主イエスが人々を愛したように、人々が互いに愛し合うことです。

 「柔和な心」で穏やかに優しく人に接することの難しさを感じることもあるでしょう。私たちは他者に対して、優越感や劣等感、見下したり妬む思いに支配されてしまうこともあります。「柔和な心」は私たちの力によるのではなく、聖霊の働きによって結ぶ実なのです(5:22-23)。柔和な心で互いの重荷を担い合うのです。

 私たちが互いに重荷を担い合うのは、主イエスが私たちの重荷を担って下さったからです。主イエスが私たちの弱さや欠け、苦しみや悲しみを担い続けて下さっているからです。何より十字架によって示された神の愛は、主イエスが私たちの罪を担うためでした。その愛にお応えして私たちもまた隣人を愛し、主イエス・キリストが私たちの重荷を担って下さったように互いに重荷を担い合うのです。

 「めいめいが、自分の重荷を担うべき」と「互いの重荷を担う」とは、矛盾しているように思えますが、5節の「重荷」は2節の「重荷」とは違う言葉で、自分の果たすべき任務や責任といった他の人に移すことの出来ない重荷です。「担うべきです」は未来形なので、5節は「自分の重荷を担うことになるのです」となります。重荷を担うのは神に従う道です。それは、義務感や恐れによって果たすのではなく、救いへの感謝と喜びによって応える道なのです。



2023年7月23日  
「人知を超える神の平和」<フィリピ4章2~9節>

7節、9節の「平和」という言葉は、「平安」とも訳せる言葉です。主の福音の中を歩む時、主による真の平安が与えられるのです。私たちは、将来に不安を抱くことや人間関係による思い煩いが生じるものです。主によって与えられる真の平和は「人知を超える」もの、私たちの思いや、私たちが理性で捉えられる範囲を超えていると言うのです。

 2節の二人の女性は、原因はわかりませんが、二人の間で対立、仲違いがあったので、パウロは二人に「同じ思いを抱きなさい」と勧めるのです。それは、主イエスの愛と十字架の姿に倣い、相手の前でへりくだり、その人を受け入れるという主と同じ思いを抱くことによって与えられる平和なのです。

 へりくだることによって同じ思いとなる時、それは自らを保っていたものを離すことになり、そこには大なり小なり苦しみが生じます。その苦しみを共に担うようにというのです。信仰者の群れが、真の協力者として、同じ思いとなって行くために必要な重荷を担って行かなければなりません。対立させようとする罪の力に対して戦わなければならないこともあるでしょう。

◎キリストに倣いつつ罪の力と戦う中で、主にある交わりによって喜びへと変えられるのです。そして「広い心」(寛容)が人々に表わされるようになるのです。そして、主が近いという信仰の中で、神に委ねる時、どんな苦しみの中にあっても、人間の思いや理性を超えた神の平和が心と考えを守るようになるのです。対立が生じる時も、キリストに倣いつつへりくだることを喜びとし、救いのための戦いとして受けとめて行くことの中で、真の平安が与えられて行くのです。



2023年7月30日  
「キリストを主としてあがめる」<Ⅰペトロ3章13~16節>

ペトロの手紙一は、迫害が強くなってきた教会の信徒に向けて、迫害と苦難の中にあっても主イエス・キリストへの信仰を貫くように人々を励まし、神のため、人のために善いことを熱心に行なうように勧めるているのです。しかし、善いことや正しいことを好まない人からの反対や妬みが起こることもあります。どうすればいいのでしょうか。

キリスト者にはどのような時においても、神からの祝福が与えられるという幸いがあります(マタイ5:10)。それは聖霊の働きによって、私たちの内側から、心の中から湧き上がってくるのです。主なる神に従い、主の愛のうちにとどまることによって、人々を恐れたり、心を乱したりすることなく、平安をいただくことができるのです。

◎「心の中でキリストを主とあがめなさい」とあるように、周囲から迫ってくる恐れに目を向けるのではなく、心の中で、イエス・キリストが十字架の上で死に、三日目に復活され、今も生きて救い主として私たちを導いて下さるとの信仰に立つのです。迫害によって外側の自由は奪われても、心の中でキリストを主としてあがめる信仰までは奪うことはできません。

◎キリストを心の王座に迎え、心の中においても礼拝し、聖霊に満たされることを求めてまいりましょう。礼拝をささげる場所は、私たち自身の内にもあるのです。人生を守り導いて下さる救い主が、慰め主としていつも私の味方となって支えてくださるのです。キリストこそが共にいて下さると信じたとき、人を恐れず、心を乱すことなく善い業に励むように変えられるのです。希望をいただき、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心」を持って歩むことが出来るように造り変えて下さるのです。